こうした極度のインフレは、堅実な産業活動を妨げ、財政を不安にした。紙幣価値の下落が頂点に達した一四年九月、松方正義が大蔵卿に就任すると、紙幣整理を中心にした思い切った財政縮小を行なった。それとともに、酒造税を増加して歳入の増加を図り、官省の経費を節減し、国費を地方費に移し、毎年およそ七〇〇万円を紙幣処分に充てる計画を立てた。
この計画について、後年松方は述懐する。「この紙幣整理を実行して、紙幣の価が次第に回復するということになると、今までの繁昌の虚影は忽ちに消滅することになる。物価は下落することになる。全国の農民は米価が下落する。地租の負担が重くなってくる。商工業者は商品の価値が下落する。品物が売れなくなってくる。孰(いず)れも甚しい不景気に襲われることになるから、その時は必ず各方面から有力な反対が起きてくるに違いない。もしその反対のために中止する位ならば、ただ波瀾を起こしたというにすぎないことになって、甚だ有害な結果を見るわけである。その位なら初めから着手せぬ方がむしろよいのである。」(小野武夫『農村史』)と松方は考えて、ごうごうたる世論の反対を押し切って、実行に移したのである。
その結果は、松方の予言通りの経過をたどって、極度のデフレ政策による経済界の混乱と国民生活の破綻を来したのであった。
農村に及ぼした影響も深刻であった。米価は一四年の一石一一円二〇銭から、一七年には五円一四銭と半値以下に下落した。この打撃を受けたのは、地主も自作農も同様であったが、経済的に地主よりも余裕の少ない自作農は、より一層の深刻さでその影響を受けた。地主は、このデフレの不利を、一部は小作人に転稼させて凌ぐこともできたが、それもできない自作・自小作農民は、定額地租の負担に耐えかねて、明治一六年~二〇年に地租滞納のため、強制処分を受けた者が、実に三六万七、七四四人に達した。(土屋喬雄『続日本経済史概要』)
こうした経済の動きを背景に、農民は急速に土地の所有権を手離した。このことは、他面に、窮乏した農民の土地を多量に購入して、大地主になった者もいたことを示すものでもある。しかし、まだ耕地から離れてしまわないで、小作となって、元の自分の土地を耕作する者も多かったのである。