デフレ政策にもとづく国民(農民)の生活が破綻した事情を、農商務省から太政官に報告した「興業意見」には、次のように述べている。
農家ハ充分ニ肥料ヲ入レルベキ力ナキニヨリ、収益モ盛時ノ半バニ減ジ、累年、負債ノタメニ典却(質入レ)シタル田畑山林モコレヲ償ウコト能ワズ。甚シキニ至リテハ、納租ノ道全ク尽キテ、挙村、公売処分ヲ受ケントスルモノアリ。郡衙(郡役所)ハ専ラ財産調ベノ事務多シ。以テ身代限リノ多キヲ知ルベキナリ。
農村のうちでも最も打撃を受けたのは、明治一〇年代の前半の全般的好況のなかで、養蚕・製糸・織物・製茶などを通じて、商品経済に深く結びついていた東山道養蚕地帯や、関東平野周辺の山間地帯と、東海道方面の茶生産地帯であった。
こういう経済事情を背景として、また、盛り上ってきた自由民権運動とタイ・アップして、農村に不穏な動きが見えてきた。それは、秩父困民党・山梨借金党・三多摩借金党・静岡県富士郡負債党などであった。
借金党・困民党の多くは、銀行・貸付会社に対して、借金の一〇か年賦、一五か年賦という年賦返済と、利息引下げという経済的要求を唯一のスローガンとして必死に行動するが、いつも抑圧されて、結局は暴動化するのであった。
借金党・困民党の発生地域は、耕作規模が非常に狭小で、商業的農業を含めた小商品を抜きにしては、到底、自給自足の生計が成立しない地域が中心であった。「武州多摩郡、入間郡、秩父郡、相州津久井郡、甲州都留郡、上州高崎、藤岡、桐生、野州足利辺、在々の義は皆山寄り、谷合の村々にて、田畑狭く、米食不足に御座候えば、畑の畔(くろ)等へ桑を植え、飼蚕仕り、絹紬等の品々端物(はもの)に織出」(荻島文書)すような、小商品の生産に赴かざるをえない必然性があった。
以上の事実を明治一七年一〇月一八日の郵便報知新聞は「四、五年来、養蚕ならびに蚕種の事業の振わざるにより、郷在、諸村人の平生、衣食をこれに仰ぐ者は、みな困難を極めしが、近日に至り、大いに不穏の状を現わし」たとして、埼玉県下の幡羅(はたら)・榛沢(はんざわ)・北埼玉一帯の農民が集合したことと、同年一一月四日には、「一〇月一日、群馬県甘楽(かんら)郡一帯で農民が蜂起した」と伝えている。
群馬・埼玉のこれらの動きに呼応して、神奈川・山梨・長野の諸県でも困民党が蜂起した。そのうちで、とりわけ大規模だったのは、北多摩・西多摩・南多摩・都筑・橘樹の武州五郡と、高座・愛甲の相州二郡の約三百か村が加盟した武相困民党の決起である。「秩父困民党より規模が大きく、また、合法運動としては極限までのぼりつめた代表的ケース」(色川大吉氏)といわれる。彼らは第一段階としては、高利貸を殺害するなどして、テロリズム(暴力主義)の様相を呈していたが、第二段階には、八王子南部・北部の村民が組織化され、一~二郡をその組織圏に入れて蜂起した。そのうちの川口困民党は八王子警察署に乱入して、二百余名の全員が逮捕された。
一七年九月からの第三段階では、対県令交渉とデモの激化でピークを迎え、この騒擾の嵐は武相の全山にこだましたといわれる。しかし、この段階での運動では「有志仲裁による示談も不調に終り、秩父困民党の武装蜂起も敗北を喫したところから、最高の次元の合法的直接請願方式をねらう、極めて現実的なものとなった」(色川大吉『困民党と自由党』)