4 秩父困民党

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 明治一七年一〇月三一日、北秩父の風布(ふっぷ)で困民党が蜂起の狼煙(のろし)を挙げた。その様子は「関詮吾聞書」によると、
  三十一日、県下秩父郡風布邨(ムラ)ノ貧民蜂起シ、同郡金崎村ノ戸長役場及ビ民家ヘ乱入、証書・地券等ヲ焼キ、金品ヲ奪イ、人ニ傷ツケタリ。因テ直チニ逮捕、二十名ハ縛ニ就キシモ、賊徒尚オ鎮静ナラズ。専ラ手配中ナリ。
 その後の風布困民党の行動は、「中林貞次郎経歴書」は記す。
  明治十七年十月三十一日午後八時頃、西ニ当リ大筒ノ音二ツ相聞コエ候。是ハ暴徒ノ相図ト察シ候。同夜、金崎村永保社ニ乱入ト申ス事ニ候。
一一月一日には、
  暴徒、下吉田村椋神社境内ニ集合致シ候風聞ニ付、見届ケトシテ村人足ヲ当テ、下日野沢村辺ヘ壱組、下吉田ヘ壱組、大宮郷(秩父市)ヲ差シテ壱組差出シ候処、追々注進コレアリ候ハ、下吉田ニテ戦争相始マリ候注進コレアリ候。
 このときは、困民党の勢が猖獗(しょうけつ)を極めたので、県官・警察方は残らず寄居へ引返したのであった。
 一一月一日午後五時、困民党は続々と下吉田村の椋(むく)神社に集結した。総勢七、八百人といわれる。早速、役付を発表し、部隊編制を行った。
 総理 田代栄助、副総理 加藤織平
 参謀 菊池貫平(信州南佐久郡北相木村出身)
 会計長 井上伝蔵、同副長二名
 甲大隊長 新井周三郎、同副大隊長 大野苗吉
 乙大隊長 飯塚盛蔵、同副大隊長 落合寅市
   伝令使、軍用金集方、兵糧方、小荷駄方、鉄砲隊長
  各村小隊長一八名
 整然とした組織であり、全く軍隊同様であった。
 気勢の揚がった困民党は直ちに小鹿野町へ進撃した。途中、高利貸の家を焼きはらったり、借用証文・衣類・刀剣などを奪ったりした。小鹿野警察分署を破壊、更に周辺の高利貸を襲いながら、秩父大宮町に侵入して、警察署・裁判所を破壊、郡役所を占領して、ここを本部と定めた。このとき困民党の軍勢は約一万といわれる。
 困民党のまとめた要求は、次の四項目であった。
 一、高利貸のため身代を傾け、目下生計に苦しむ者多し。依て債主に迫り、十か年据置き、四十か年賦に延期を乞う事
 一、学校費を省くため、三か年休校を県庁に迫る事
 一、雑収税の減少を内務省に迫る事
 一、村費の減少を村吏へ迫る事
 
 大宮の占領は一一月二日から四日にわたったが、政府は四日に一個大隊、五日に一個大隊を派遣して鎮圧にあたった。激しい戦いのすえ、四日午後、困民党本部は解体され、五日にはその主力は崩壊した。一部は、信州出身で参謀長となった菊池貫平らに率いられて、武州街道を通り、十石峠を越えて甲州街道を南下した。馬流(まながし)で追撃隊と戦闘を交えたが、最後は八ヶ岳山麗の野辺山高原で潰滅的な打撃を受けた。一一月九日であった。
 被害表    秩父郡    児玉郡
  被害町村   五四      四
  被害戸数  五五六     二〇
  破壊・焼失戸数三九      七
  被害額三六、一一六円 六、六六四円
 
 逮捕および死傷人員
  逮捕人員     三八〇
  自首     二、六三七
  死者        一六
  未逮捕      一〇〇
 警官死傷
   死者        二
   重傷        三
   軽傷        五
 処断人員
  罰金    四
  禁錮懲役 六三
  無期懲役  四
  死刑    四
    田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉
    (小野文雄『埼玉県の歴史』による)