5 入間・高麗の惨野

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 当時の川越近隣の農民が窮乏に苦しんだ状態は、『埼玉自由民権運動史料』のなかに、如実に示されているから、引用してみよう。
  川越地方村落の農家の困難は、実に一方ならず。或は山薯蕷(やまいも)(トロロの根)を掘り来り、細かに切りきざみ、これを干(ほ)し乾かして、挽割(ひきわり)に混合し、食料に供するものあり。草の根・木の芽を採り来りて食うものは、近頃耳新しからず、将来如何成り行くべきか、困り果てたる有様なり。元来、同地は木綿織物を多く産出する所なるに、昨年来、該商業最も不景気にて、休業又は業を縮めたる者多く、其の雇い工女を減ぜしより、この工女等は俄(にわ)かに業を失い、また、商業一般不景気なるがため、貨物の運送減ぜしより、荷車挽き・人力車夫等も其の業を失い、加うるに、近頃、荷馬車頻(しき)りに相開け、一駄を馬一疋・人足一人にて運送せしに、馬一疋・人足一人にて四、五駄を運送するの便利を得しにより、業を失う者多し。
  当県下の茶は、狭山(県下第一等の製茶産出所)一般、平均凡(およ)そ四分内外の収穫の由。是は昨年来、数度の大雪と晩霜のために害せられ、殊に肥料の不足なるがためにして、既に入間郡藤沢村辺の如きは、咋年は製茶二百五十〆(貫)目も収納せしに、本年は概略百〆目の坂を越すこと難(かた)かるべしとのことなり。
  桑も晩霜のために大害を蒙り、目下の芽立ちにては七分位なるべし。とにかく桑葉の売方多くして、買方なく、相場も判然せざる由。かく窮民の逐日増加するに引替え、物産の逐年萎靡(いび)するは、嘆ずべきの至りというべし。この模様にては、養蚕も昨年に比すれば、凡そ四分減じとならんか。
       (明治一八年五月二八日「東京横浜毎日新聞」)
  県下川越地方にては、去る暮れより、活計方頗(くらしむきすこぶ)る困難となり、糊口に差閊(つか)える者此所彼所(ここかしこ)に生出し、最初は自分の土地に食を乞うを恥じ、一里以外の村落に出て、富豪の門に立ちて救助を受け、泣く泣く其の日を送りたりしも、追々恥を忍ぶの有様に立至り、かかる者ども日に倍加し、月に増殖せしかば、巡行の巡査はこれを見咎(とが)め、或は呵責(かしやく)(叱りつける)し、或は説諭を加えたれば、一時は各自の本業に就き、苦心勉強せしかど、如何せん、とても自家の暮し方に供する程の仕事は出来ず、饑餓に迫られ、以前の乞食に復したり。然るに、去る四月十四、五日頃とか、窮民等三十名斗り同気相集まりて、何か紛議を惹(ひき)起し、これがために、該地の富豪は殊のほか要慎(心)をなし、或は毎戸に金一円ずつを与え、或は挽割(ひきわり)麦三升ずつを施与したれど、是は実に一時凌(しの)ぎの上皮療治なれば、其の病毒は却(かえつ)て劇烈の度を加え、昨今に至っては、川越戸長役場聯合中に戸数概略五千戸もある内、窮民凡そ百五十戸程にも増殖したるとのことなり。窮民は川越町字西町、境町、六段、妙養寺門前、十念寺門前の辺に多く、目下、郡役所ならびに戸長役場、又は有志者に於ても、余りに窮民の数多きを以て、其の事実如何を探究し、其の窮困の軽重の差別もあるものなれば、これを取調べて、其の上に如何とか救済の方法をなさんとて、目下尽力中なり。(同紙)