1 埼玉県の自由民権運動

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 埼玉県(当時は態谷県)で初めて民権結社が成立したのは明治八年であった。七名社と呼ばれ、大里・北埼玉郡の有志七名が態谷に設立したものである。七名の中には、後に県会議員となる長谷川敬助・稲村貫一郎・石坂金一郎・中村孫兵衛を始め、石川弥一郎・小泉寛則・鯨井勘衛が参加している。彼らは戸長や区長を経験して、早くから地方自治にたずさわり、民権思想にも触れていたのであろう。
 次いで、明治一一年には県下の民権結社としては最大規模であった通見社が、県北の羽生地方に結成された。二四〇〇名の署名を集めて、一三年一〇月一〇日の国会期成同盟第二回大会に参加している。
 入間郡では明治一一年二月に勧善社が黒山村で設立された。戸長浅見四郎が社長となり、柴崎勇の宅を会場として、毎月一、二回開会した。初めは御布告や御達(たっし)を懇切に説明し、次に、東京日々新聞・朝野新聞・東京曙(あけぼの)新聞・絵入の諸新聞・民間雑誌・埼玉新報等を読み聞かせた。それらの勉強が終ると、書画・俳諧の文芸を楽しんだ。そして「人民を卑しきより誘導して、高きに至らしめ」ようとした。入社の人員は一〇〇名ばかりあったという。民権運動の初期には、このように、新聞などから民権思想を取り入れることが多かったとみえる。また、演説だけでなく、書画・俳諧などを楽しみながら勉強に励んだわけである。
 一三年頃になると、「入間・高麗・比企・横見四郡同志会」が生れた。この会は通見社と同じく、国会開設請願運動をつづけていた。一三年一一月の国会期成同盟の第二回大会に、会員一三六名の代表として、豊田新田の福田久松を派遣している。しかし、具体的に請願運動に乗り出したのは、一三年二月に福田久松が「我埼玉県の有志諸君に謀(はか)る書」を活版刷りにして、県下の有志者に配り、国会開設を政府に懇願しようと呼びかけたのが始まりである。
  諸君中、或ハ私財ヲ費ヤシテ国事ニ奔走スルヨリハ、ムシロ坐視スルノ勝レタルニ如(シ)カズト云ウ者アラバ、倶(トモ)ニ語ルニ足ラズト雖モ、我輩ハ只(タダ)コレラ諸君ノタメニ恨ム。将来ノ世人ノタメニ芋〓(イモムシ)人民ナリ、一山百文ナリト批評ヲ下サルルヲ。若シ諸君ニ於テモ、コレヲ恥ジ、コレヲ切歯セバ何ゾ奮ツテ民権ヲ主張セザル。何ゾ進ンデ国会開設ヲ懇願セザルカ。而シテ其ノ民権ヲ主張シ、国会開設ヲ懇願スルハ、今日ニアラズシテ将(ハ)タ何ノ日ニアリヤ。嗚呼(アア)時ヨ、時失ウベカラズ。今ノ時ヲ失ワバ、後復(マ)タ臍(ホゾ)ヲ噛(カ)ムモ及バズ。嗚呼、我埼玉県ノ有志諸君ニ意アラバ、夫レコレヲ謀レ。
   明治十三年二月 入間郡豊田新田平民
                福田久松頓首
  此ノ一書ヲ得タルノ諸君ハ速ヤカニ御回答ヲ。
と、舌を噛んで死ぬか、国会開設を懇願するか、どちらか一つを選べと絶叫している。