2 周辺の結社と演説会

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 次に、頻繁に会合の行われた川越と所沢を除いて、鶴ケ島周辺の結社や演説会を記すことにしよう。
明治一一年一一月 三芳野学校で演説会・協議会を開催した。
一四年一月 横沼(坂戸市)で面白会が発足した。
  本会ハ号(ナズケ)テ懇親話談面白会トシ、専ラ懇意親睦ヲ旨トシ、功益トナルベキ百般ノ事ヲ演説・討論・問答スルノ有志会ニシテ、勉メテ会場規則ヲ遵守シ、聊カ不正不義ノ行状アルベカラズ
   (会則第一条)
 同 一一月 飯能「資有会」発足。会員六〇余名。
 同 一二月 大袋新田で「入間郡自由郷党同盟」の結成。加入者は入間、高麗の二郡で百余名。
一五年二月 比企郡玉川郷で、学術演説会。
 同 三月 同所で、嚶鳴(おうめい)社員高梨哲四郎、他二名の学術演説会。聴衆三百余人。
一六年五月 石井村(坂戸市)大智寺で有志政談演説会を開催。弁士は沼間守一(ぬまもりかず)・改進党員角田(つのだ)真平、他二名。聴衆三百余名。
 同 一〇月 越生村。演題は末広重恭(しげやす)(鉄腸)「独立政党論」、近藤圭三「帝政党の解散を嘆ず」。聴衆二百四、五〇名だが、越生村民は僅々五、六名で、大多数は近村の有志者であり、改進党に属する人々である。
一九年一二月 赤尾村(坂戸市)「明治親友会」発会。学術・農蚕を論究する。
二一年一一月 「入間・高麗郡地方制度研究会」発会。講師は高田早苗(さなえ)(※註1)・宇川盛三郎・井本常治。目的は「市制・町村制・郡制・府県制ヲ学理上及ビ実際上ヨリ研究シテ、以テ自治ノ実效ヲ収ムルニアリ。」発起人として、大河原栄五郎(日高町)・田中万次郎(鶴ケ島町)の名が見える。
二二年四月 森戸村(坂戸市)で、政談演説会・懇親会を開く。当日の模様は、
  埼玉県下入間・高麗両郡の有志者は、一昨七日、東京より波多野伝三郎・桐原捨三・丸山名政(なまさ)の三氏及び我社の加藤政之助氏を招聘(へい)し、午後二時より入間郡森戸村西光寺に於て演説会を開きたり。傍聴者は近郷三、四里外の町村より来集し、開会の頃は七百数十名の多きに達す。第一に桐原氏演壇に登り、次で波多野・森山・加藤の三氏、順次一題を演じたるが、聴衆中一人の騒擾(そうじよう)に渉(わた)るものなく、始終静聴、時々拍手喝采の声満場に湧出するを見たり。特に衆議院選挙の事に及ぶや、其の説く所、聴衆の意に適中せるものと見え、拍手の音満場に響き渡れり。午後□時半閉会を告ぐ。それより同地の倶楽部(くらぶ)なる清風館に於て懇親会を開けり。来会者七十余名あり。同館の楼上に宴席を設け、弁士諸氏の其の席に臨むや、一同拍手して諸士を迎え、席定まりてのち、会主総代より弁士及び来会者に謝辞を述ぶ。次で、加藤・波多野・丸山・桐原の四氏、及び田中万次郎・福田久松・中島仁平等の諸氏、各々席上演説あり。酒杯の間、議院選挙の打合せもあり。孰(いず)れも穏和着実の方向を取る同主義者を出すことに尽力すべきを約し、午後十一時過ぎ一同散会せり。本会に尽力せる人々は田中万次郎・藤野市郎次・藤野宇一・吉野芳太郎・藤野治平・高篠喜多郎の諸氏なり。(四月九日「郵便報知新聞」)
同 四月 扇町屋(入間市)で、「扇町屋倶楽部」設置のための政談演説会を開く。弁士は林包明(かねあき)・藤井乾助・花井卓蔵。大同団結派に近い政見をもつ者の集会で、林包明を代議士候補者に推そうとしている。
同 五月 入間郡坂戸村の村松栄枝・鈴木五郎・同平蔵・江倉吉太郎・関根忠衛・福島清三郎が発起人となり、永源寺で演説会を開く。弁士は渡辺小太郎・菊地道太(東京倶楽部)及び林包明・近藤圭三(埼玉倶楽部)。六百余名の聴衆は拍手喝采の声引きも切らず、頗(すこぶ)る盛会であった。懇親会には九二名の出席者があり、悉(ことごと)く大同論に賛成した。
同 七月 入間郡越生町で政談演説会を開く。東京倶楽部から曽田愛三郎、埼玉倶楽部から近藤圭三の演説があった。聴衆凡そ二百三〇余名で、条約改正を中止の建白に決定した。
同一二月 比企郡今宿村円正寺で、政談演説会と懇親会を開く。当村は改進党の巣窟として知られていたが、近来、自由主義を慕うものが増加したので東京倶楽部から林包明、他三名を聘して、政談学術演説会を開催した。当日は、武蔵野倶楽部員を始め、三〇数名の有志は、坂戸村に一行の来るのを待ち、歓声大呼、自由万歳を唱え、それより自由万歳・売国利己撲滅、武蔵野倶楽部など記した大旗を真先きに掲げ、今宿村に入ると、村男・村女はもちろん、遠近から参会するもの無慮千六、七百人とも見受けられ、実に人山を築くほどであった。やがて、諸氏の到着を見ると、一斉に拍手して、自由万歳を叫び、相共に擁して会場に入ると、すでに立錐の余地のないほど聴衆が集まっていた。(「絵入自由新聞」)
 
 このように、自由民権の政社は、農事研究のサークルや、生活改善あるいは殖産興業の勉強会を母胎として生れたものであり、それが発展して自由民権の政社として固まったものであった。それだけ、村落に根を張った強固な団体となったのである。
 また一方には、地租改正の反対や、地方税(県税)の軽減を叫ぶ農民の声もあった。明治初年には、農民に対して大きな影響を与えたものは地租改正であった。この改正によって地租は米納でなく、金納になったのであった。それは、大地主にとって有利ではあるが、小地主や自作農にとっては大きな負担となる制度であった。収税率は幕府時代に比べて軽減されていない上に、金納となれば、米価が日一日と下落する昨今では、低い値段で米を換金しなければならないから、実質的には増税と同じ結果となる。そのために、地租改正反対や地方税軽減を要求する声が全国的にあがったのであった。
 そればかりではなかった。先述のように、松方デフレの結果、農村は貧窮のどん底に落ちていた。明治一〇年頃は、米の売り値はどしどし上がり、繭・生糸は飛ぶように出荷した。村々には笑いが絶えなかった。しかし、明治一五年頃から風向きが変ってきた。横浜で生糸の相場が半分に崩れ(三五〇円台から一八〇円台へ)、繭も米も麦もさがり始め、以来、止まるところを知らない、という状勢であった。困窮に打ちひしがれた農民は生活を防衛するために、当然の事として、自由民権運動の反体制思想や、その行動に共感を覚え、熱烈な支持者となったのであった。そのために、全国各地の農村に結社が形成された。
 当地方の結社については前述の通りであるが、かんじんの鶴ケ島町内で講演会や研究会が開催されていないのはどういうことであろうか。