元来、明治初期の政党分布は、保守的とされる改進党には、埼玉県内に万べんなく加入者が多く、自由党は北部にだけ進出していた。明治一六年の県会議員数を見ても、自由党は入間郡で一人いるだけで、残り一四人は改進党で占めている。
表5-19 自由・改進党員及び県会議員数 |
明治16年5月現在,( )内は県会議員数 |
党 | 自由党 | 改進党 | 合計 |
郡 | |||
北足立 | 19 | 83(5) | 102(5) |
北埼玉 | 20 | 8 | 28 |
北葛飾 | 21 | 9(1) | 30(1) |
南埼玉 | 4 | 22(1) | 26(1) |
榛沢 | 17 | 17 | |
入間 | 6(1) | 10(3) | 16(4) |
秩父 | 4 | 4 | |
新座 | 6(1) | 6(1) | |
高麗 | 3(1) | 3(1) | |
比企 | 9(1) | 9(1) | |
横見 | 9(1) | 9(1) | |
中葛飾 | 3 | 3 | |
合計 | 91(1) | 162(14) | 235(15) |
『埼玉自由民権運動史料』より |
森戸村も坂戸村・赤尾村、少し離れて今宿村も最初のうちは改進党を支持していた。このことは、過激な政治活動を忌避することが、当地方一帯の民情を示すものである。
鶴ケ島村の県会議員田中万次郎は、二三年七月一日に行われた第一回衆議院議員選挙に二区(入間・高麗二郡)で立候補したが、圧倒的に改進党系が強く、まるで歯が立たなかった。第三回・第四回の選挙にも立候補し、特に第三回には二千票近くの得票があったが、ついに改進党の牙城を抜くことができなかった(表-20)。
表5-20 埼玉県衆議院議員選挙一覧表 |
第一回(二十三年七月一日施行) | 第二回(二十五年二年十五日施行) | |||||||
区 | 有権者 | 得票数 | 党派 | 候補者氏名 | 有権者 | 得票数 | 党派 | 候補者氏名 |
二区(二人) | 一、二二〇 | 議集 | 高田早苗 | 二、七二三 | 議集 | 高田早苗 | ||
九九七 | 自倶 | 清水宗徳 | 二、七一一 | 議集 | 福田久松 | |||
九六八 | 改 | 桐原捨三 | 一、七〇〇 | 自 | 清水宗徳 | |||
八九三 | 改 | 福田久松 | 一三八 | 自 | 橋本三九郎 | |||
三、九九八 | 八三七 | 改 | 長谷川信恭 | 四、〇〇九 | 一一五 | 其外 | ||
六六三 | 改 | 片岡勇三郎 | ||||||
五八二 | 改 | 鈴木善恭 | ||||||
三四〇 | 田中万次郎 | |||||||
二四五 | 自 | 野口本之助 | ||||||
二三八 | 上田岱弁 | |||||||
棄 八〇 | 一六四 | 須藤周三郎 | 棄 二五〇 | |||||
無 六七 | 一六一 | 大内青巒 | 無 一九 | |||||
三〇八 | 其外 | |||||||
第三回(二十七年三月一日施行) | 第四回(二十七年九月一日施行) | |||||||
区 | 有権者 | 得票数 | 党派 | 候補者氏名 | 有権者 | 得票数 | 党派 | 候補者氏名 |
二区(二人) | 二、四三三 | 改 | 福田久松 | 二、七八七 | 改 | 福田久松 | ||
二、三五五 | 改 | 高田早苗 | 二、五八二 | 改 | 高田早苗 | |||
一、九五五 | 自 | 田中万次郎 | 八〇七 | 自 | 田中万次郎 | |||
三五〇 | 自 | 小林捨三 | 一三五 | 自 | 小林捨三 | |||
四、〇六四 | 八三 | 其外 | 四、一二一 | 一一〇 | 其外 | |||
棄 三一五 | 棄 七九〇 | |||||||
無 一五 | 無 一五 | |||||||
こういう状況だから、入間・高麗郡では漸進的・実業的といわれる改進党的な思想と行動に支配されており、秩父や三多摩の困民党・借金党のように、急進的・志士的だとされる自由党左派に指導された過激な行動に訴えることはなかったものと思われる。
脚折村の農民階層表によると、農家戸数七七戸のうち、五反以下の耕地しかもたず、再生産とうてい不可能とみられる農家が三二戸(約四二パーセント)もあった。彼らは、秩父や三多摩の農民と同じく、作物の値段は暴落し収入は半減したはずである。彼らは、身代限りとなったり、小作人に転落した秩父や三多摩の農民と同じ運命をたどったのであろうか。彼らは無口であり、筆を執って記録を残す能力は養われていない。沈黙のうちに貧窮のどん底に落ちた苦難の歴史をしのぶだけである。
田中万次郎は、その後、実業界に身を転じて、後輩にあたる粕谷義三の後援組織「惟一(ゆいいち)倶楽部」を結成して、なお政治活動をつづけたが、その時代になると政界の状況は一変した。その景況を埼玉県憲政本党(※註2)支部幹事を勤める星野平兵衛は語る。
誠に残念なるは、本県における進歩党の有様である。昔日は随分盛んでありしが、今は僅かに党勢を維持するに過ぎざる境遇に陥っている。今日、進歩党の根拠地と称すべきは、本郡(北足立)と比企郡との二郡で、入間郡・児玉郡もやや盛んなる土地で、これらが進歩党の領分地である。しかし、他郡には党員が絶無という訳でない。各郡に党員を有するも、勢力が孤立している。北葛飾にも南葛飾にも同志者がいるが、先ず根拠地は以上の四郡であるというても差しつかえない。惜しい事は入間郡である。ここには有力者が随分揃うておるから、これらの人々が結合して一団となり、進歩党に尽力したならば、半分位は確かに取れるだろうに、一向その熱心が足りぬのみか、差し当り、これらの有力者を統一する人がない。(「評論」第一五号)
〔註〕
(1) 教育家で政治家。東京生れ。大隈重信の改進党結成と東京専門学校(早稲田大学)創設に参画した。衆議院議員当選六回。改進党・進歩党の領袖となる。また、早稲田大学の総長として名声を馳せた。
改進党の金城湯地ともいうべき川越へ迎えることで、当選確実化をはかったものであろう。
(2) 明治三一年六月、自由党と進歩党(改進党系)が合同して憲政党をつくった。しかし、同年一一月には分裂して、憲政本党が旧進歩党系で組織された。党首は大隈重信。
(1) 教育家で政治家。東京生れ。大隈重信の改進党結成と東京専門学校(早稲田大学)創設に参画した。衆議院議員当選六回。改進党・進歩党の領袖となる。また、早稲田大学の総長として名声を馳せた。
改進党の金城湯地ともいうべき川越へ迎えることで、当選確実化をはかったものであろう。
(2) 明治三一年六月、自由党と進歩党(改進党系)が合同して憲政党をつくった。しかし、同年一一月には分裂して、憲政本党が旧進歩党系で組織された。党首は大隈重信。