3 田中万次郎とその活動

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 ここで注目すべきは田中万次郎の存在である。彼は弱冠三三才で脚折村の戸長となり、連合戸長・郡会議員を経て、明治一六年には、高麗郡より選出されて県会議員となっている。明治二二年には、隣村森戸村で筆頭発起人として、政談演説会を開催し、傍聴者は「近郷三、四里外の町村より来集し、開会の頃は七百数十名」に達する盛況であったと、報じられたところをみると、彼は、高麗郡の民意を代表した自由党員であったことがわかる。しかし、高麗郡自由党員の指向するところは、同日開催された懇親会の席上で打合せをされた議員候補者は「穏和着実の方向を取る同主義者を」選出するよう尽力することになったのであるから、同じ自由党でも左派ではなく、漸進的な自由党員であったのである。
 元来、明治初期の政党分布は、保守的とされる改進党には、埼玉県内に万べんなく加入者が多く、自由党は北部にだけ進出していた。明治一六年の県会議員数を見ても、自由党は入間郡で一人いるだけで、残り一四人は改進党で占めている。
表5-19 自由・改進党員及び県会議員数
明治16年5月現在,( )内は県会議員数
自由党改進党合計
北足立1983(5)102(5)
北埼玉20828
北葛飾219(1)30(1)
南埼玉422(1)26(1)
榛沢1717
入間6(1)10(3)16(4)
秩父44
新座6(1)6(1)
高麗3(1)3(1)
比企9(1)9(1)
横見9(1)9(1)
中葛飾33
合計91(1)162(14)235(15)
『埼玉自由民権運動史料』より

 森戸村も坂戸村・赤尾村、少し離れて今宿村も最初のうちは改進党を支持していた。このことは、過激な政治活動を忌避することが、当地方一帯の民情を示すものである。
 鶴ケ島村の県会議員田中万次郎は、二三年七月一日に行われた第一回衆議院議員選挙に二区(入間・高麗二郡)で立候補したが、圧倒的に改進党系が強く、まるで歯が立たなかった。第三回・第四回の選挙にも立候補し、特に第三回には二千票近くの得票があったが、ついに改進党の牙城を抜くことができなかった(表-20)。
表5-20 埼玉県衆議院議員選挙一覧表
第一回(二十三年七月一日施行)第二回(二十五年二年十五日施行)
有権者得票数党派候補者氏名有権者得票数党派候補者氏名
二区(二人)一、二二〇議集高田早苗二、七二三議集高田早苗
九九七自倶清水宗徳二、七一一議集福田久松
九六八桐原捨三一、七〇〇清水宗徳
八九三福田久松一三八橋本三九郎
三、九九八八三七長谷川信恭四、〇〇九一一五其外
六六三片岡勇三郎
五八二鈴木善恭
三四〇田中万次郎
二四五野口本之助
二三八上田岱弁
棄 八〇一六四須藤周三郎棄 二五〇
無 六七一六一大内青巒無 一九
三〇八其外
第三回(二十七年三月一日施行)第四回(二十七年九月一日施行)
有権者得票数党派候補者氏名有権者得票数党派候補者氏名
二区(二人)二、四三三福田久松二、七八七福田久松
二、三五五高田早苗二、五八二高田早苗
一、九五五田中万次郎八〇七田中万次郎
三五〇小林捨三一三五小林捨三
四、〇六四八三其外四、一二一一一〇其外
 
 
 
 
 
棄 三一五棄 七九〇
無 一五無 一五
 

 こういう状況だから、入間・高麗郡では漸進的・実業的といわれる改進党的な思想と行動に支配されており、秩父や三多摩の困民党・借金党のように、急進的・志士的だとされる自由党左派に指導された過激な行動に訴えることはなかったものと思われる。
 脚折村の農民階層表によると、農家戸数七七戸のうち、五反以下の耕地しかもたず、再生産とうてい不可能とみられる農家が三二戸(約四二パーセント)もあった。彼らは、秩父や三多摩の農民と同じく、作物の値段は暴落し収入は半減したはずである。彼らは、身代限りとなったり、小作人に転落した秩父や三多摩の農民と同じ運命をたどったのであろうか。彼らは無口であり、筆を執って記録を残す能力は養われていない。沈黙のうちに貧窮のどん底に落ちた苦難の歴史をしのぶだけである。
 田中万次郎は、その後、実業界に身を転じて、後輩にあたる粕谷義三の後援組織「惟一(ゆいいち)倶楽部」を結成して、なお政治活動をつづけたが、その時代になると政界の状況は一変した。その景況を埼玉県憲政本党(※註2)支部幹事を勤める星野平兵衛は語る。
  誠に残念なるは、本県における進歩党の有様である。昔日は随分盛んでありしが、今は僅かに党勢を維持するに過ぎざる境遇に陥っている。今日、進歩党の根拠地と称すべきは、本郡(北足立)と比企郡との二郡で、入間郡・児玉郡もやや盛んなる土地で、これらが進歩党の領分地である。しかし、他郡には党員が絶無という訳でない。各郡に党員を有するも、勢力が孤立している。北葛飾にも南葛飾にも同志者がいるが、先ず根拠地は以上の四郡であるというても差しつかえない。惜しい事は入間郡である。ここには有力者が随分揃うておるから、これらの人々が結合して一団となり、進歩党に尽力したならば、半分位は確かに取れるだろうに、一向その熱心が足りぬのみか、差し当り、これらの有力者を統一する人がない。(「評論」第一五号)
  〔註〕
  (1) 教育家で政治家。東京生れ。大隈重信の改進党結成と東京専門学校(早稲田大学)創設に参画した。衆議院議員当選六回。改進党・進歩党の領袖となる。また、早稲田大学の総長として名声を馳せた。
    改進党の金城湯地ともいうべき川越へ迎えることで、当選確実化をはかったものであろう。
  (2) 明治三一年六月、自由党と進歩党(改進党系)が合同して憲政党をつくった。しかし、同年一一月には分裂して、憲政本党が旧進歩党系で組織された。党首は大隈重信。