この秩父困民党事件については、隣接する上州自由党との関係が深いことを痛感する。上州と秩父との関係については、井上幸治氏は著書『秩父事件』で次のように述べている。
上州は関東において養蚕と製糸の王国であった。明治になって秩父が高機(たかはた)や座ぐり機を取入れたのは、すべて上州である。生活の地縁・血縁をたどって、上州自由党も秩父に流れこみ、明治十五年、秩父にも自由党員が出現することになった。
秩父と上州甘楽(かんら)郡の境には、神流(かんな)川が流れ、郡境から神流川を越えると南甘楽の坂原村である。この村の新井愧(き)三郎は、高崎の宮部襄(のぼる)とともに、上州自由党の幹部であった。明治十五年、坂原村には十九名の党員が現われている。上州や秩父の山間部の自然のきびしい、貧しい生活が、生糸にかける村の農民たちにとって、自由民権運動の反体制思想や、行動形態には、率直に共感できるものがあったにちがいない。(『秩父事件』)
つづいて同年には、新井愧九郎三兄弟という血縁を軸に、自由党は地縁的にひろがっていった。愧三郎(甘楽郡坂原村)・留五郎(多野郡乙母(おとも)村)・真十郎(秩父郡金沢村)がそれである。秩父自由党の幹事役村上泰治(同日野沢村)もまた愧三郎の姻戚にあたり、その関係で入党し、彼の属する大井グループに加入した。彼らは、初めは部落内部の親分子分の関係を通して自由党をひろげていった。そして一七年の初めには、のちに秩父農民の指導者となる高岸善吾・落合寅市・坂本宗作などの中農・貧農出身の農民の指導層も入党したのであった。
ところで、彼らの入党した自由党の大井グループとは、いかなる主張をもったグループだろうか。
明治一六年の後半から、自由党指導部は方向を転換し始めたのであった。それは、明治専制政府による上からの憲法制定と、国会開設をそのまま認め、そのなかで「議会政党」になろうとする方向へ動き始めたのであった。これは、官民融和の政党への変質である。党指導部と党員の大半は疑問ももたずその方向へ歩み始めていた。しかし、一部の党員が統一的な組織もないままに、創立期の「変革の政党」の立場を守ろうとすれば、勢いとして急進主義へ走らざるをえなかった。党幹部が立党の精神に立脚して、全農民が念願してやまない地租軽減やその他の運動を全国的に組織化し、その経済闘争を、民主主義的政治を求める政治闘争に結合する道もあったが、そのような政治的試みを、党幹部も大半の党員も果すことはなかった。
その急進主義のリーダーが大井憲太郎であった。その急進主義は、革命の導火線となるテロリズム(暴力主義)から、農民と結合した挙兵主義までの幅があったが、時によっては両極に揺れ動いた。一七年五月頃の政府の探偵の報告によれば、大井憲太郎を中心とする「独立派」・「決死隊」なるものが、関東各地につくられていたという。
一六年末になると、自由党幹部大井憲太郎・宮部襄(のぼる)を中心とした、茨城県下館(しもだて)地方から群馬県西部の甘楽地方にかけた急進グループが結成された。このグループは各地に散在して、地方党員をまとめ、「同派は五百名」といわれていた。彼らは暗殺(テロ)グループを支持しながらも、むしろ、挙兵をきっかけにして、一斉蜂起をひき起して政府の転覆をはかろうとした。
このような急進グループの革命路線とは別に、農民たちは各地ではげしい闘争を展開していた。北甘楽郡では一六年二月、相野田村に農民数百名が集合した。彼らは解散を命じられると、総代人をたてて、負債問題についての伺書を郡役所に提出した。同郡管原村にも農民たちが集合して、債主を脅迫する勢いをみせていた。彼らは解散を命じられると、一組は貧民社をもうけ債主と交渉することにし、一組は高崎裁判所へ借金据置・年賦払の勧解(かんかい)願(明治初年の「調停」)を出した。
こうした社会不安がつづいているうちに、翌一七年五月一日、自由党左派の有信社に属する決死隊は、貧農を糾合(きゅうごう)して蜂起した。彼らは初め、当日に予定されていた日本鉄道高埼線開通式に集まる大臣・貴顕(きけん)を急襲してとりこにし、一挙に高埼兵営を攻め破って挙兵しようと考えていた。しかし、五日まで待機していても式は行われなかった。そのため、鋒先(ほこさき)を転じ、数千の人民を妙義山麓に集めたのであった。時に明治一七年五月一三日。
指揮をとったのは、一の宮の僧日比遜(そん)と北甘楽郡内匠(たくみ)村の戸長湯浅理兵で、もう一人の自由党員三浦桃之助は、秩父困民党の村上泰治に同時蜂起を促すために秩父に向っていた。
逸(はや)る大衆を抑えかねた指揮者たちは、五月一五日深夜、総勢三千余人を先鋒・中隊・後隊の三団に分けて、先ず岡部為作の経営する生産会社を目ざして行動を起こした。この生産会社は、「為作、貪欲飽くことを知らず」といわれる強欲な高利貸付会社であった。
一六日午前二時、群衆は鬨(とき)の声をあげて乱入、住宅・倉庫を打ちこわした上、焼き払ってしまった。勢いに乗った群衆は、松井田警察署を襲い、更に高崎兵営を目ざして進んだが、頼みとする同志の来援がなく、秩父の困民党も動かず、糧食尽きて落伍者続出、事は失敗に終った。
一七年五月一五日に、群馬事件が失敗に終って半年後、一一月一一日に秩父事件が激発したのである。時期的にみても秩父事件は、この群馬事件と無縁ではあるまい。上州多胡郡上日野村の小柏常次郎は、近村で三、四〇名の加盟者を集めて秩父事件に参加している。また、甘楽(かんら)郡出身の宮部襄・長坂八郎・新井愧三郎らの上州自由党幹部は、群馬事件に参加しなかったが、これは、彼らが秩父・長野を含む大規模な蜂起を企図していたので、時期尚早とみていたためであるといわれている。
一七年二月、自由党左派の領袖大井憲太郎が秩父を訪(おとず)れたが、このさい村上泰治をはじめ八名が入党した。一七年になると三月二七日七名、五月一八日一一名、五月二〇日二名と、合わせて二〇名が入党した。この一七年入党者のなかに、高岸善吉・落合寅市・坂本宗作の困民党組織のトリオがおり、井上伝蔵のような困民党幹部の名が見え、新井蒔蔵・竹内吉五郎らの在村オルグもはいっていた(井上孝治『秩父事件』)。これらの党員は、大井憲太郎の指導下にある上州自由党の企図する一斉蜂起と無関係とはいいえない。
以上、綜合して考えると、群馬事件も秩父事件も、大井の指導下にある上州急進自由党の企図した全国一斉蜂起の一環であり、秩父の方は、一七年一一月になると、自由党の指導を逸脱した自由困民党首導の蜂起ともいうべきであろう。
しかし、彼らのスローガンは同一である。「地租軽減」・「無利足三十ヵ年据置」・「徴兵反対」・「地方税延期」・「学校費減少」であった。そして、これらの経済的要求の最終的解決は、専制政府打倒=民主主義的国会の即時開設なしにはありえない、としたのであった。