川越通信 入間・高麗郡役所部内は、川越町を始めとし、昨今、糊口(ここう)に苦しむ貧民所々に散見し、飢餓に泣くの声漸く喧(かまびす)しきに及ぶ。其の実況を査察するに、むしろ昨年に比して一層の甚しきを見るなり。すでに此程、某地に於て四隣飢餓に逼(せま)るものあるを見て、前途を憂えてや、食料未だ乏し告(ママ)るに至らざるもの、葛(くず)の根を掘り採りて、食に充(あ)てんと企てし者ありしに、或人之に忠告して言う。足下の如き食に欠乏せざるものにしてこの葛根(くずのね)を掘る。飢餓目下に逼るものは、何に依りて以て其の生活を保続すべきぞ。須(すべか)らく此の掘取を廃して、飢餓目下に逼れるものに譲りて、之を掘らしむべしと。其の人直ちにこの忠告を容(い)れて、その掘取を止めたりと聞く。この一話、以て目下飢餓に瀕(ひん)せるもの多きを見るべし。
(明治一九年三月二二日「郵便報知新聞」)
秩父の困窮人と同様に飢餓に瀕した入間・高麗両郡の困民は、秩父困民党の苛烈な動きを、どんな思いで聞いたことであろうか。これも新聞記事によると、
川越通信 秩父暴徒の子分にや、先ごろ、多人数血判をなし、徒党を結び、すでに一騒動にも及ばんとせしことのありたれども、幸いに未発に露見し、川越警察署にそれぞれ捕縛せられ、大事に至らざりしは大慶。
(明治十九年五月十六日「朝野新聞」)
この一騒動は未然に発覚して潰滅したが、飢餓による困窮民は、秩父困民党のように、組織化されることもなく、これを指導するリーダーらしきものもなく、大きな暴動にまで発展する展望はなかった。それは、川越警察署の威力によるまでもなく、組織化した暴動は、入間・高麗両郡の思想風土にはなじまない行動であったからである。
「3、田中万次郎とその活動」で述べたように、入間・高麗両郡は、漸進的・現実的・理性的・官民一和とされる改進党の埼玉県二大拠点といわれるほど保守的な風土であり、自由党のくい込む余地は少なかった。脚折村の田中万次郎が衆議院議員に三度立候補しても、いつも次点に終り、福田久松(豊田新田)・高田早苗(川越町・のちの早稲田大学総長)の改進党の牙城を破ることはできなかった。明治三一年の第五回選挙で粕谷義三(のちの衆議院議長)がやっとトップで当選したが、それも次点とは八〇票の僅差であった。粕谷は八王子に近い県南藤沢村(入間市)の出身で、所沢およびその近辺に自由党入党者が多かった関係であろう。「自由は県南より来る」ともいうべきである。
当時の政状について、「郵便報知新聞」は「川越紀行」と題して、次のように記している。
近来、地方ニ於テモ著シク政治上ノ思想発達シテ、政事ヲ論議シ、或ハ演説者ヲ招聘(シヨウヘイ)シテ、以テ地方ノ団結ヲ鞏固(キヨウコ)ニシ、或ハ人心ヲ誘導セント謀ルモノアル多シ。而(シカ)ルニ、青年血気ノ徒、時ニ激動軽挙ノ風アルヲ見、為メニ老成若実ノ人ヲシテ、厭悪(エンオ)ノ心ヲ生ゼシメ、既ニ結合スルモノヲシテ、離散シ到底再ビ団結スル能ワザルノ情態ニ陥(オチイ)ルモノ尠(スクナ)シトセズ。
ここで「青年血気ノ徒」とは自由党系の人々をいい、「老成若(着カ)実ノ人」とは改進党系の人々を指すのであろうか。そうだとすれば、自由党の「激動軽挙」によって、改進党の人々が闘志を失ったということになる。
その点を荒井悦郎氏は「埼玉自由民権運動関係論考」で精密な分析をしておられる。
明治一六年の段階では、自由党員は六名だが全員が入間郡で高麗郡には一人もいない。改進党員は自由党員の二倍余であり、高麗郡にも三名いるところをみると、両党の勢力比率は改進党が断然優位に立っている。財産については自由党員は上・中・無が二人ずつであり、改進党員は上・中が多数を占めている。名望については、財産あるものが名望があるとは限らない。自由党員六名のうち五名が名望なしである。改進党員についても同様のことがいえる。
表5-21 自由・改進両党員の社会構成(明治16年) |
自由党 | 改進党 | ||||||||||||||||||
財産 | 名望 | 計 | 財産 | 名望 | 計 | ||||||||||||||
上 | 中 | 下 | 無 | 不明 | 有 | 少有 | 無 | 不明 | 上 | 中 | 下 | 無 | 有 | 少有 | 無 | 不明 | |||
入間郡 | 2 | 2 | 2 | 1 | 5 | 6 | 2 | 4 | 2 | 2 | 2 | 8 | 10 | ||||||
高麗郡 | 2 | 1 | 2 | 1 | 3 |
『埼玉自由民権運動史料』より |
(この表は全県下の統計表より抽出したもの) |
この表は入間・高麗両郡だけを抽出したもので、全県下の社会構成・年令構成については、荒井氏の指摘した要旨を摘記しよう。
社会階層の面では、自由党の方が社会的地位が高い。財産の上・中というのは、地主および上層自作農に該当するのであろうか。自由党はその階層に依拠するところが大きい。しかし、社会的地位の高いことはそのまま名望家であることにはならない。七割近い名望「無」は何に起因するのであろうか。一つは「青年血気ノ徒」と呼ばれる年令の若さであろう。また今一つは、自由党の主義が急進的であることが挙げられる。この二条件が重なって、自由党を村落共同体から乖離(かいり)した存在にしているのではないだろうか。
他方、改進党についてみると、党員の中核は、財産「中」または「下」であるから、中・下層の自作農、それに中小地主を含むものと思われる。この階層で三〇代の党員となると、「老成若(着か)実ノ人」という評価が頷ける。また、表にはないが、改進党員のなかには埼玉県の諸会社や銀行の役員が少なからず含まれている。
例えば、増田忠順(柏原村)は入間銀行取締役、鈴木善恭(松山町)は松山製糸会社社長・松山銀行取締役、水村精(川越町)は川越銀行頭取である。
従って、三〇代の自作農・中小地主・新興「ブルジョワジー」による、着実かつ穏健な政党というのが、埼玉県の改進党の姿であろう。(『秩父困民党の成立』)
以上の統計によると、明治一六年段階の高麗郡では、一人の自由党員も出現せず、たまたま党員があったとしても改進党員である。これは、「青年血気」や急進主義を忌避して、「着実かつ穏健」に生きようとするのが、高麗郡の思想風土であるといえよう。
〔参考文献〕
埼玉自由民権運動研究会『埼玉自由民権運動史料』
埼玉自由民権運動研究会『埼玉自由民権運動史料』