3 鶴ケ島村の誕生

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 ここに一二か村・二新田を合併して、今日の鶴ケ島町が生れたわけである。合併区域や名称について、特別に紛議が起ったとは思われない。区域については、訓令第三四六号に、
第一条 独立自治ニ耐ウル有力ノ町村ヲ造成スルニハ、従来、聯合ノ習慣ニ隨イ、地形民情ニ於テ故障ナキモノハ、成ルベク現戸長役場所轄区域ノ儘合併スルヲ要ス。
として、上広谷連合戸長役場の所轄区域がそのまま、新しく鶴ケ島村となったのだから、合併村々の住民としても特に抵抗感をもたなかったのであろう。
 また、名称についても、各村々の戸数に大差なく、比較的大村である脚折村に吸収合併されたわけでもなく、「歴史上著名ノ名称」であり、ことに祥瑞(しょうずい)であるとされる「鶴ケ島」という村名を新たに採用したので、各村々でも異存はなかったことと思われる。このことは、先の合併試案でも鶴ケ島村という村名がすでに採用されていたことでも納得ゆくことである。