徴兵令の布告

586 ~ 587
江戸時代には軍事的な勤務はもっぱら武士の行うところで、庶民は関知しなかった。いや、関知してはいけなかった。明治の初めに新政府ができても、政府のもつ軍隊はなく、勤王各藩がばらばらに自藩の武士をそろえて政府に協力していた。つまりその軍隊は政府を守る軍隊ではなく、自藩を守るための軍隊であった。
 ところが、明治二年版籍奉還の結果、各藩の軍隊は解体され、政府直属の軍隊が編成されることになった。この軍隊編成について政府部内に大論争がおきた。長州派は、農兵を募集して親兵とする国民徴兵制によって、政府直属の常備軍を建設せよと主張した。これに対して薩摩派は、藩兵を除外して、農兵を募り親兵とするは不安心として、薩・長・土三藩の精兵を中央に集めることを主張した。
 この対立は、根本的には、中央政府の当面の最大の敵は、天下に横溢する不平士族であるか、それとも一般民衆の一揆を恐るるかの見解の相違であった。
 明治五年になって、政府の見解はようやく統一した。その結果、一一月二八日、全国徴兵の詔(みことのり)が下った。
  朕惟(ちんおも)うに、古昔郡県の制、全国の壮丁を募(つの)り、軍団を設け、以て国家を保護す。固(もと)より兵農の別なし。中世以降、兵権武門に帰し、兵農始めて分れ、遂に封建の治を成す。戊辰の一新は実に千有余年来の一大変革なり。この際に当り、海陸兵制もまた時に従い、宜(よろしき)を制せざるべからず。今、本邦古昔の制に基き、海外各国の式を参酌(さんしやく)し、全国徴兵の法を設け、国家保護の基を立てんと欲す。汝百官有司、厚く朕が意を体し、普(あまね)く全国に告諭せよ。
 同日、太政官もまた告諭を発している。そのなかに、
  我朝、上古の制(中略)固より後世の双刀を帯び、武士と称し、抗顔座食し(※)、甚しきに至ては、人を殺し、官その罪を問わざる者の如きに非ず。(中略)大政維新、列藩版図を奉還し、辛未の歳(明治四年)に及び、遠く郡県の古に復す。世襲座食の士はその禄を減じ、刀剣を脱することを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。これ上下を平均し、人権を斉一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり。ここに於て、士は従前の士に非ず、民は従前の民に非ず。均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も、固よりその別なかるべし。
  ※ いばりかえって、なんの仕事もせずに暮している。
 とあって、徴兵の制は、士族の常職を剥奪するものであることを、明白に宣言しているのである。当時としては、相当に思いきった告諭である。そして最後に、徴兵がいかに「天然の理」であるかを次のように諭ず。
  天地の間、一事一物として税あらざるはなし。以て国用に充(あ)つ。然らば、人たるものもとより心力を尽し、国に報ぜざるべからず。西人これを称して血税という。その生血を以て国に報ずるの謂いなり。
 とあるのを見て、「血を絞られる」と誤解し、甚しきにいたっては「徴兵は強壮な者をアメリカにやって、膏(あぶら)や胆(きも)を取る」ということになって、各地で「血税反対一揆」が起った。また、戦闘の特権を剥奪された士族の不満が、明治九年の廃刀令の不満と合して、熊本・秋月・萩などの乱をひき起した。
 徴兵の告諭に続き、明治六年一月に徴兵令が公布された。これにより、満二〇歳に達した男子は、身分の別なく徴兵検査を経て三年間の兵役に服すべきことが規定され、国民皆兵による常備軍の制度が基礎付けられた。