攘夷論者によって設けられた明治新政府は、その成立と同時に百八〇度転回して「開国和親」の国策を内外に宣言し、それからの明治政府は積極的に世界の舞台に活躍し始めた。
当時、東亜の政局は決して容易なものではなかった。徳川幕府から受けついだ懸案課題が無解決のまま山積していたし、早急に解決せねばならぬ外交問題も切迫していた。ヨーロッパ列強の帝国主義的政策は、爪牙をみがいて辺境を侵食していたからである。
隣国朝鮮も帝国主義的侵略の例外として放置してはおかなかった。先ずロシアが、次いでイギリスが隙あらばとねらっていた。清国も朝鮮をおのれの属国だと考えていた。
そのうちに、日本の急ぎに急いだ富国強兵がようやく身についてきた。つまり日本の資本主義が早い速度で発達してきたということである。その結果、朝鮮は日本にとって不可欠の市場となり、朝鮮貿易に占める日本商品の比率がしだいに増加してきた。例えば、日本から朝鮮への木綿の輸出(イギリス製品の再輸出であるが)は、朝鮮への輸出総額の七割を超え、更に、日本からの近代工業製品や食糧の輸入は、朝鮮経済を混乱に陥れていた。
一方、太平天国の乱(一八五六―六四)以後、政局が安定してきた清国は、朝鮮に対する宗主権(※)を主張し、経済的・軍事的進出をねらう日本との対立を深めた。
※ 一国が、他国の内治・外交を管理する特殊な権力をいう。
朝鮮とわが国との外交関係については、明治新政府は王政復古を朝鮮に伝えて、開国通商を求めたところ、朝鮮政府は保守・排外の鎖国主義をかたくとって、わが国の交渉に応じなかった。そのために両国間に紛争が生じ、わが国では征韓論もおきた。
その後使節を派遣して再三修好をはかった。たまたま明治八年に、首都漢城近くの江華(こうか)島で、日本軍艦に対して朝鮮側から発砲するという事件が起った。すなわち江華島事件である。
この事件を機会に、日朝修好条規(江華条約)が結ばれ、朝鮮が完全な独立国であることを認め、釜山港のほかに元山・仁川の二港を開かせた。しかし朝鮮はこれまで清国に属していたので、清国はあくまでも宗主権を主張した。
これに関連して、朝鮮国内には日本と結んで、独立を全うし、近代化をはかろうとする独立党と、清国に頼り、保守的な立場にたつ事大党との争いが起った。またこの頃、朝鮮に対する清国製品の進出著しく、朝鮮市場をめぐって日清両国ははげしく争っていた。
明治一五年と一七年に独立党と事大党との騒乱が起った場合、朝鮮に駐屯していた日清両国の軍隊も衝突した。
政府は一八年、清国と条約を結んで、両国の朝鮮からの撤兵と、将来出兵するさいの事前通告を約束した。当時わが国は国家の近代化に全力を注いでおり、この問題を解決する余力はなかった。その内に朝鮮では事大党が権力を掌握したから、清国の勢力は次第に強化され、わが商人の活動も圧迫されるようになった。このような状勢をみてわが国内にも朝鮮の独立をはかれという世論が高まってきた。