明治二七年、地方官の暴政に憤慨した南部朝鮮の民衆が東学党の乱を起すと、清国は、属国朝鮮の求めに応ずるという口実のもとに出兵し、わが国にも通告した。これに対しわが国もまた、清国が朝鮮を属国視するのは許されない、居留民保護のためと称して出兵した。
東学党の乱はその後まもなく鎮静したが、清国はひきつづき兵力を増強した。そのためついに日清両国の戦端が開かれ、同年八月一日清国に宣戦を布告した。
戦争は主として南満州を舞台に展開されたが、戦況はわが軍に有利に進み、清国の首都北京を衝く態勢を示した。そのため清国は和平を求めたので同二八年三月二〇日休戦条約を結び、同二八年四月一七日講和条約を調印した。その内容は、清国は朝鮮(※)の独立を承認し、遼東半島・台湾・澎湖(ほうこ)島を日本に割譲し、償金を支払い、沙市(さし)・重慶・蘇州(そしゅう)・杭州(こうしゅう)の開市・開港などであった。
※ 朝鮮は、明治三〇年に国号を大韓と改めた。
しかし、わが国民が戦勝の喜びにひたっているとき、かねて満州に不凍港を求めていたロシアは、フランス・ドイツを誘って、遼東半島の領有は、清国の首府を危くし、朝鮮の独立を有名無実とし、極東平和の障害であるとして、遼東半島を清国に還付することをわが国に申し入れた。政府は内外の情勢を考慮して、三国干渉に従わざるをえなかった。