戦時下の鶴ケ島村(田中家日記より)

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明治二八年一月二五日 大津にいる宮本三喜、戦時憲兵補助上等兵拝命。占領地に派遣のよし。
二月七日 高倉、小川完一郎長男徴集につき見舞に行く。餞別壱円。
同一四日 岩殿山で祈祷。征清軍のため断食する。賽物は恤兵部へ寄贈。
 斎藤喜三郎、清国へ行く。見舞状を出す。
同二四日 後備軍斎藤喜三郎広島出発。
 万次郎に徴兵参事員(会)に立会うよう申し越さる。
同二八日 軍事公債三枚渡さる。
三月六日 元狭山村二本木陸軍兵卒田辺増太郎、清国金州で赤痢にかかり、広島予備病院で死亡。仏葬式に参会。
同一一日 男爵千家尊福(埼玉県知事)より田中万次郎あて書面来る。貴衆両院議員が発起して、本県下第一師団所属の軍人に対し、予餞会を開くにつき、発起人になることを依頼する件である。場所は麹町区飯田町の富士見楼、会費五〇銭。軍人二五〇名、酒つき料理代五〇銭。
同一三日 高麗村長山口若太郎から招待状。陸軍一等軍曹和田茂十郎・同一等兵関口弥八戦病死につき葬儀に出席を乞う旨である。忠勇義烈・尽国の霊を慰め、国民軍人鼓舞奨励のため是非御出席を。
同一四日 後備歩兵独立大隊第四中隊斎藤喜三郎より通知。延引していた渡清の件は、去る一〇日大本営より命令あり、一四日広島を発し、宇品港で和泉丸に乗る。上陸場所は金州か大連付近であるという。
同一七日 築地海軍大学校内、近衛歩兵第三聯隊四中隊新井九十郎より餞別の礼状。
同二〇日 大手町戦時補助憲兵第二教養場宮本三喜より、留守宅御助合として補助したことへの礼状。
同二一日 近歩三ノ四新井九十郎より、二四日出発の通知。
同二二日 元鍛冶村野田より、清国で病死につき(氏名不記)葬式の通知。
同二四日 補助憲兵、北白川宮師団、明日午後二時汽車で出発、広島へ行く旨通知。
同二六日 泉井(いずい)(鳩山村)関口孝吉より本人無事の通知。清国は未だ積雪二尺余、十五聯隊一大隊の兵は、七分(ママ)は足をこが(ママ)し、三分は無事とのこと。
 軍事公債三五円納める。
四月四日 三角(地名)三上清之助より葉書。近衛師団へ召集になり、集合部(ママ)へ出発とのこと。
同二四日 高萩村の村田文助、陸軍歩兵予備一等軍曹服役中死去につき葬式の通知。
同二八日 軍事公債二五円返る。
 高萩戦死者香料、有志者三一人、一人九銭七厘ずつ。旗一本、平三郎・万二郎寄付す。この代六三銭。
五月二六日 内野重右衛門に軍事公債三七円五〇銭渡す。
六月三日 万次郎、川越の戦争者慰労の下相談に、議員一同で行く。その他関係のもの一同、もちろん各(村)長出席の旨申し候。千円のつもり。
同七月 入間・高麗郡役所内、平井光長より、徴兵慰労会征清軍のため醵金の員数、鶴ケ島村は一九円三弐銭八厘。