日露戦争と世論

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日英同盟の成立が圧力となり、ロシアは満州から撤退したが、明治三六年になると、かえって増兵し、韓国北部まで進出してきた。ここに、韓国を支配下におこうとする日本とロシアとの開戦は必至となった。
 国民の世論は、一部社会主義者が「平民新聞」で反戦を叫んだのを除けば、大勢は開戦へと向う流れを形成していた。
 明治三七年二月八日、日本海軍はロシア艦隊を奇襲攻撃し、日露戦争が開始された。戦局は、旅順陥落・日本海々戦・奉天会戦等日本軍有利のうちに進んだが、戦争末期には日本の戦力は底をついた状態にあった。兵力は総員の四割を失い、戦費も前年度一般会計収入の六・六倍にあたる一七億円を使い果たしていた。戦費は非常特別税という増税と、公債(その多くは外債)でまかなわれていた。一方、ロシアでは、三七年一二月に、賃上げと労働条件の改善を求める労働者は、バクーでゼネストを開始し、三八年一月には「血の日曜日」事件を契機に、ロシア第一革命が勃発した。ロシア皇帝は、戦争継続の意思にもかかわらず、戦争の終結を必要とした。
 このような両国の状況を背景に、明治三八年八月、アメリカのポーツマスで日露講和会議が開かれ、難航の末、終戦を迎えた。講和条約の内容は、韓国・清国での日本の権益拡大や、南樺太の日本への譲渡などであった。しかし、一五億円の賠償金要求は拒否された。
 この条約調印に不満をもった国民は、日比谷公園で講和条約反対の国民大会を開いたが、集まった群衆は警官と衝突し、日比谷焼打事件をひき起こした。この暴動は、横浜・大阪・名古屋・神戸など、全国各地に波及した。また、講和反対・閣僚問責は各地の大会