埼玉県の対応

592 ~ 592
で決議された。
明治三七年
二月二日 御前会議で、対露交渉を打切り、開戦決定。
同一〇日 宣戦布告、本県陸海兵に動員令下る。
三月三日 臨時県議会開会。日露開戦による県予算減額更正案を可決する。
同九日 近衛師団所属の本県兵士は、第一軍黒木大将指揮下に入り、広島へ集合。平壌へ出発。
同二〇日~二五日 第一師団所属の本県兵士は、第二軍奥大将の指揮下に入り、宇品(うじな)を発し、遼東方面へ向かう。
八月一九日 第三軍、旅順総攻撃を開始。
一二月一三日 中学生の羅沙(らしゃ)服を、小倉服に改正することを埼玉県会は要望す。
明治三八年
三月一〇日 日本軍、奉天を占領す。
五月二七、八日 日本海海戦。
八月一〇日 ポーツマス日露講和会議開始す。
九月五日 講和反対国民大会が開催され、日比谷で焼打事件を起こす。
一一月五日 日露戦争凱旋軍人を歓迎のため、尚武会は大宮駅に歓迎場を設け、酒・茶菓子や大宮小学校音楽隊を以て慰労した。明治三九年四月一四日までに、六万七千名を接待した。(『埼玉史料辞典』より)