村ではこの戦争に七八名が出征し、うち九名が戦死した。戦死者は部落総出で弔われ、村の公職にある人々や、国会議員なども葬儀に参加した。大正三年一二月二五日(実際には大正五年一二月二日)には、日清・日露没軍人の忠魂碑が、第一尋常高等小学校の校庭(現在、鶴ケ島第一小学校隣接地)に建立された。
一家で出征兵を出すということは、重要な働き手を失うということである。しかしそこは共同体意識の失われていない農村である。相互扶助精神はただちに発揮された。
高沢清三郎氏出征につき、助手(すけて)順番表
高沢清三郎氏出征につき、字(あざ)内中申合せ規約により、七月、十二月の二ケ月間に限り、毎月一人ずつ、毎戸順番に、該家(がいか)(その家)へ農事助手致すべく候事。
明治三十七年七月一日大字脚折(四〇名連署、略)
また、出征者の家族を扶助するため、寄附金を集めたり、出征者への慰問文が送られたりした。村役場からは、時節柄節約を旨とすべしという通達が出され、様々な行事は質素に催すよう指導された。
国債は数度にわたって発行されたが、明治三七年六月四日、鶴ケ島学校で集会があり、次のような説明があった。
入間郡〆高五十五万七千円
是を各町村に割り、引受ける。
鶴ケ島分 三千八百二十五円
但シ、一回ノ券 九百五十円
今回の戸数に割付分 三百二十五円
合せて、一千二百七十五円となる。
(田中万次郎日記より)
なお次に、戦争末期に鶴ケ島村戦時議会議長から出征兵士に宛てられた慰問状の一部を掲載する。これは、日比谷焼打事件をひき起した当時に、村民はいかなる戦況判断をしていたかを示すものである。
(略)皇軍ノ向フ所前ナク海ニ陸ニ戦ヘバ必ズ勝チ攻ムレバ必ズ取リ旅順ノ陥落沙河奉天ノ大捷敵胆為メニ寒カラシメ列国ノ最モ信頼シタル世界列国モ亦倶ニ注意セシバルチック艦隊ヲ一撃ニシテ殆ンド全滅セシメ再ビ立ツノ余力ヲ存セザルガ如キ(略)今ヤ米国大統領ノ仲ニ入リ両国講和全権委員会議ヲ開キ講和条件審議中ノ由ニ候得共彼又我戦勝国ノ寛大ナル条件ヲ入ルゝニ吝ナレバ尚撃チテ之ヲ覚サゝルベカラズ(略)
明治三十八年八月二十日
鶴ケ島村戦時義会(ママ)長
鶴ケ島村長 金子助五郎