この軍隊手帳は、一人の後備輜重(しちょう)輸卒が日清・日露の両大戦に転戦した記録である。
「軍隊手帳」は、〝軍隊手帳に係る心得〟第一条によると、「軍隊手帳ハ勅諭・読法(トクホウ)・誓文(セイモン)・在郷軍人ノ心得及ビ各自ノ履歴等、凡(オヨ)ソ軍人常ニ服膺(フクヨウ)スヘキ事項ヲ掲載シ、且(カツ)金銭物品ノ受授ヲ證スルモノナレハ、最モ丁寧ニ所持シ破損紛失セサル様(ヨウ)、細心注意スヘキ事」とあるように、最も貴重な手帳である。初めに勅諭が載っている。
軍隊手帳(高篠喜一氏提供)
「我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にそある。昔、神武天皇躬(み)つから大伴(おおとも)・物部(もののべ)の兵(つはもの)ともを率い、中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ、高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて、天下(あめのした)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ。(以下略)」その中に、有名な五か条の勅諭がある。
一軍人は忠節を尽すを本分とすべし
一軍人は礼儀を正しくすべし
一軍人は武勇を尚(とうと)ぶべし
一軍人は信義を重んずべし
一軍人は質素を旨(むね)とすべし
読法(とくほう) 「兵隊ハ、皇威ヲ発揚シ、国家ノ保護スル為メニ設ケ置カルルモノナレハ、此兵員ニ加ハル者ハ、左ノ条件ヲ守リ違背スヘカラス(以下略)」
高篠義吾の履歴
近衛輜重兵補充中隊
埼玉県高麗郡鶴ケ島村中新田 栄助長男
高篠義吾
明治七年十二月三日誕生
明治二十七年十二月二十日 補充中隊へ編入
明治二十八年二月十五日 第四歩兵弾薬縦隊転入
同三十日 東京出発
三月五日 広島着
同九日 宇品出港
同十二日 清国大連着
同十三日 上陸
同十四日より十五日迄 柳樹屯滞在
同十六日 出発
同十九日 李家屯着
同二十日より四月二十三日迄 滞在
四月二十四日 出発。光山子屯着
同二十五日より五月十四日迄 滞在
同十五日 出発
同十八日 千家屯着
(以下記入なし)
簡閲点呼 二十九年より三十六年迄、毎年点呼
明治三十七年二月八日 近衛師団第四糧食縦列に編入
三月十八日 宇品出帆
同二十二日 韓国鎮南浦へ上陸
四月二十六日より 鴨緑江及び九連城攻撃に従事
五月二日 清国九連城に舎営
同 四日 同地出発
同 十一日 高麗門へ着。同地滞在
七月三十一日 様子嶺付近の戦闘に参与す
八月二十四日より九月五日に亘(わた)る
二道河大相屯ヤエチ及び遼陽付近の戦闘に参与す
三十八年二月二十六日 独立野戦砲兵六大隊へ編入
二月二十四日より三月十六日に亘る
奉天付近の會戦に参与す
四月十日 原隊に復帰す
七月二十七日 東菓子園舎営病院へ入院
十月二十八日 宇品港帰着
十一月九日 東京着 同日、東京予備病院渋谷分院へ入院
同 十八日 治癒退院 同日、近衛輜重兵大隊補充隊定員内に編入
十一月二十一日 召集解除
(召集解除と共に帰郷旅費が支給された)
明治二十八年二月廿一日 酒肴料トシテ金拾銭下賜
同 六月十三日 酒肴料トシテ金五拾銭下賜
一金六拾弐銭五厘
但し帰郷旅費トシテ支給
明治丗八年二月廿日迄給料(※註1)増給支給済
明治丗八年二月廿六日
近四糧 陸軍三等主計 高柳節三
〔註〕
(1)給与は本俸が三〇銭で、途中から一五銭の増俸が支給されている。
〔参考文献〕
「鶴ケ島村郷土誌」