日露戦争後、国民の間では、増税による戦費の負担と軍備拡張に対する批判の声が高まっていった。ところが、軍部と藩閥勢力は、自分たちに都合のよい形での倒閣と組閣とを強引に行ない、そのため、師団増設反対、桂太郎内閣打倒、憲政擁護を要求する運動が全国的にまき起こることとなった。
これにより桂内閣は総辞職し、所謂政党内閣時代に路を開くこととなるのであるが、埼玉県下でも、大正元年(一九一二)から二年にかけて度々憲政擁護大会が開かれている。鶴ケ島でも、元県会議長田中万次郎などは、当時旧自由党系の立憲政友会埼玉支部の重鎮であった関係上、これらの動向と無縁ではいられなかったようだ。大正元年末の万次郎の日記には、県民大会参加のことや、尾崎行雄、犬養毅、杉田定一等の名前が頻出する。
大正三年(一九一四)に第一次世界大戦が勃発すると、輸入超過と不況に悩む日本経済は一挙に好況へと転ずることとなった。しかし、この大戦ブームは同時に異常な物価高騰をももたらした。とりわけ、大正六年(一九一七)半ばから米価が上昇し始め、翌年にはシベリア出兵をあてこんで米の投機、買占め、売惜しみも頻繁に行なわれたため、米価は前年の二倍以上に高騰した。
米価の急騰に対して民衆は、シベリア出兵宣言に相前後する七年八月、米騒動という形で対抗した。米騒動は県下にも及び、ストライキや小作大会も度々行なわれたが、町村有力者による米の安売り等の救済対策が成功したことなどにより、さしたる騒擾に至らずに済んだ。
鶴ケ島村でも、その年の麦の不作を理由に、小作料措え置きが小作人から地主に申し入れられたり、寺で小作人集会が開かれるなどしたが、やはり総じて平穏であった。
大正七年は、普選運動再興の年でもあった。明治以来途絶えていた普選運動は、翌八年には全国的な広がりを見せるようになり、埼玉県下にも波及した。この普選運動を軸に、青年たちのエネルギーを原動力として現状改革を求める動きは、近代日本に最初に出現した本格的な民主主義のうねりといえる。大正九年五月二日、東京上野公園で日本初のメーデーが開催されたのを初め、この時期、多くの労働団体や普通選挙を主張する団体が生まれ、諸改革を目ざした運動が展開された。
この様な中で、大正一一年(一九二二)三月三日、全国水平社創立大会が京都で開かれ、未解放部落の人々の自主的な組織として水平社が創立された。同年四月一四日には、京都水平社に次ぐ全国二番目の地方組織として埼玉県水平社が結成され、労働運動、農民運動と提携した運動が提唱された。鶴ケ島でも、大正一三年一〇月、鶴ケ島村水平社創立大会が開催されている。
この時期行なわれたシベリア出兵では、五名の村民が犠牲者となった。
大正六年一一月、ロシアでは皇帝を退位させた三月革命につづいて、労働者・農民・兵士の革命がおこりロシア帝国は崩壊し、社会主義国家の建設をめざすソビエト政府が成立した。革命の影響をおそれたイギリス・フランス・アメリカ・日本などは、シベリアで捕虜になっていたチェコスロバキア軍の救出という名目で大正七年八月、出兵した。日本はこれら列強が大正九年までに見切りをつけて撤兵したのちも、単独で大正一一年一〇月まで駐兵をつづけた。この時の戦没者は次のとおりである。
斉藤仙蔵 大正八年七月一七日 脚折(横須賀海軍病院)
関口又吉 大正八年七月三〇日 高倉(ハバロツスクアン南方ゼーヤ河鉄橋)
紫藤利三郎 大正八年一一月一三日 脚折(ウラジオトルバ、カタイ)
高篠福太郎 大正九年八月三〇日 中新田(シベリアバラバシ)
宮本貞純 大正九年八月三一日 共栄(シベリアイマン陸軍病院)