2 満州事変の勃発と二・二六事件

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 以上の様な社会的背景下で、不況からの脱出を求めて、軍部を中心とした中国への侵略の気運が高まっていった。昭和六年(一九三一)九月一八日、奉天郊外の柳条溝で満州鉄道の線路が爆破され、これを中国側の行為であるとして満州事変が勃発した。この爆破は、関東軍特務機関の謀略により実行されたものであることが戦後明らかにされた。しかし当時は、中国軍の日本軍への攻撃であるとされ、戦争を支持する世論が形成されていったのである。この時期の鶴ケ島村出身の戦没者は、昭和九年三月二六日に戦病死した川鍋保治だけであった。昭和一〇年一月二〇日には遺骨の出迎えがあり二月三日村葬がおこなわれた。
 一方国内では、同年に三月事件、一〇月事件が、翌七年に右翼による政治家や財界人の暗殺(血盟団事件)や犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)が、一一年には二・二六事件が引き起こされた。
 これらの侵略や一連のテロ、クーデター事件は、いずれも農村不況の現実に端を発するものであったが、同時にその後の破滅的な戦争へのレールを敷くものであった。
 二・二六事件は、一部青年将校に率いられた准士官、下士官、兵からなる一、五〇〇名の部隊による蹶起―反乱である。彼らは、首相官邸、陸軍省、国会議事堂等を襲撃してこれを占拠、重臣数名を殺傷し、陸軍上層部に国家改造の断行を要求したが、二八日鎮圧のための奉勅命令が出され、事件は四日にして終結した。しかしこの事件を期として、軍部の政治的発言力は著しく高まっていった。
 部隊の主力をなした歩兵第一連隊と第三連隊とは、その多くが埼玉県出身者からなり、結果的に二・二六事件に参加した兵士の約半数は埼玉県出身者によって占められた。彼らは、二六日早朝就寝中のところをたたき起され、その目的認識も不明なままにかり出された。そして、原部隊復帰後の五月には、彼らの殆どは満州に移され、翌年から始まる日中戦争の最前線に投入された。
 鶴ケ島村出身者も、数名が事件に関係している。
 当時歩兵第一連隊機関銃隊上等兵であった内野嘉重氏は、分隊長として首相官邸襲撃―占拠に加わり、四十数年の後当日の模様を次の様に回顧している。
   明るくなってきた頃さしもの銃声も止み、襲撃が成功したことを知らされた。遂に一国の総理が銃弾で斃れたのである。こうした武力行為が果して正しいものなのか、何も知らない私にとっては只命令を遵守するばかりである。しかし後刻になって連隊から暖い飯や飯盒(はんごう)、手袋、靴下等が届けられたのをみて、連隊でも我々の行為を認めていることが判り、ようやく安心した。(新編埼玉県史別冊『二・二六事件と郷土兵』)。
 当時歩兵第一連隊機関銃隊二等兵であった平野栄一氏は、やはり首相官邸を襲撃―占拠した部隊に居り、後に以下の所感を述べている。
   今日蹶起趣意書を読むにつけ同志将校の憂国の至情が切々と感じられる。事件が起るまでの数年間、瀕発した類似事件に為政者は何等の改善もせず、遂に二・二六事件を引起す結果になった。誠にもって痛憤の至りである。そのため我々兵士も犠牲となり、反乱軍の汚名を被り、肩身を縮めて世の中を生き続けてきた。また家族郷土にも迷惑を及ぼしたことも事実であった。
   今静かに当時を偲(しの)べば、隔世の感新なると物故者への冥福を祈る心で一ぱいである(新編埼玉県史別冊『雪末だ降りやまず』)。
 この時、内野氏、平野氏とは全く逆の立場に置かれた者に、新井佑氏がいた。新井氏は、近衛歩兵第四連隊第六中隊付の少尉として、蹶起―反乱軍の鎮圧に当った。その際、国会議事堂玄関に吊されていた「尊皇討奸本部」と書かれた蹶起―反乱軍の本部垂幕奪取を敢行している。新井氏は後に、当時の複雑な心情を次の様に述べている。
   私は二・二六事件で鎮圧軍として出動した。願わくば一日も早く反乱軍が原隊に復帰することを期待するばかりだった。反乱軍になった者たち、特に主謀者と呼ばれる青年将校等の思想は一般に革新的といわれている様だが、当時の情勢を考えれば、私には彼らの気持が分るような気もする。勿論、直接行動には反対であり、他に何か考えられなかったのだろうかとの感がある。

本部垂幕(新井佑氏所有、埼玉県立博物館提供)