日中戦争が始まると、その戦線拡大と長期化に伴い、戦争協力の社会教化運動として同年八月より政府は国民精神総動員運動を展開した。「尽忠報国」「挙国一致」「堅忍持久」のスレーガンのもと、中央には国民精神総動員中央連盟を結成、道府県に知事を長とした実行委員会を置き、更に市町村においては市町村長が中心となり町内会・部落会にまで趣旨の徹底が図られた。
この頃には、鶴ケ島から出征していく兵士の数も日増に増加していった。兵士は、赤紙と応ばれる召集令状によって動員された。赤紙は、川越警察署から役場に回され、兵事係の照合を経て本人、家族に届けられた。
応召者には寄せ書きや千人針が送られた。千人針には、死線(四銭)を越える、苦戦(九銭)を免れるという願いを込めて五銭玉や十銭玉が縫い付けられたり、「虎は千里往って千里還る」の故事にならい虎の絵が描かれるなどした。また、応召者やその家族、隣近所の人達で、神社に参拝して無事と武運長久を祈った。後に出征兵士が増えると、脚折の白鬚神社や太田ケ谷の高徳神社などで出征合同祈願が行われるようになった。
脚折の合同祈願(柳沢釼太郎氏提供)
出征当日は、村当局者、在郷軍人分会、婦人会、青年団等の代表者を混え、駅頭で壮行会が行なわれた。その際には、陸軍軍楽隊戸山学校の教官によって指導・養成された、青年学校生からなるラッパ鼓隊の演奏があり、万才の声と日の丸の小旗の中、西大家駅、一本松駅、坂戸駅、鶴ケ島駅などから出征していったのである。
第一国民学校とラッパ鼓隊(柳沢釼太郎氏提供)
昭和一三年度の鶴ケ島村青年団「団報」には、庶務係の事業報告が以下の様に記されており、当時の様子の一端を伝えている。
四月五日 故高澤大尉並に新井上等兵両氏の村葬執行に付き団員出席す。
四月二十九日 応召者家庭労力奉仕。各支部長責任を以って実施す。
五月十四日 江南に於て戦死せられたる広谷砲兵上等兵瀧島文太郎氏の遺骨午後六時三十分鶴ケ島駅に到着す。団員参列す。
五月十八日 下新田出身陸軍歩兵上等兵鹿島雄二氏第二野戦病院に於て戦傷死せられる。報告是れ有候。
六月十三日 長期戦国民精神総動員運動講演並に打合会出席。豊岡町小学校に於て入間川越各団長副団長出席。
七月六日、十五日 軍の作戦上に依り急を要し山本航空第三部長来村。義務的に出務する様告げられる。
七月二十八日 軍用馬糧干草に団員一同是れに従事す。
八月九日 張鼓峰付近の戦闘に於て町屋福島兵吉君名誉の戦死をとげられた。
九月二日 時局講演会午前八時より本村第一小学校に於て各種団体主催の下に元六十六聯隊長陸軍歩兵大佐小山永光殿の講演に団員出席す。
九月十二日 午前九時より実施される防空演習各役員是れに従事す。
十月十九日 故福島准尉、鹿島雄三、滝島文太郎三君の合同村葬を第一小学校校庭に於て施行された。団員全部参列す。
十一月三日 鶴ケ島第一小学校にて出征及び戦死者遺家族の慰安会を開催す。
十一月十八日 鶴ケ島勝呂合同(青年団、青年学校)査閲予習を勝呂村小学校にて行ふ。
十一月十九日 秩父宮殿下御言葉奉戴式大日本聯合青年団綱領伝達式(入間川小学校)に団長副団長出席す。
十二月十四日 各種団体長会議に依り慰問袋出征兵○○(ママ)名に発送す。
二月二十日 川越中学校に幹部講習会に評議員全部出席。
三月二十一日 各戦役の戦死者墓参に団員参列す。
四月五日 午後一時より本村小学校に於て故原埜伍長故小峯上等兵両氏の村葬施行せられる。団員全部参列す。