1 翼賛体制の制立

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 日中戦争が長期化し、戦線が膠着するなかで日本の国際的孤立化が進んだ。昭和一四年(一九三九)五月、関東軍は満蒙国境のノモンハンでソ連軍、外モンゴル軍と衝突し大敗を喫した。関東軍が苦戦を強いられているさなかの八月、日本と防共協定を結んでいたドイツは突然ソ連との間に独ソ不可侵条約を結び、九月、ポーランド攻撃を開始して第二次世界大戦が勃発した。中国大陸では、日本は七月、天津のイギリス、フランス租界の封鎖を画策し、これに対してアメリカは日米通商条約の破棄を通告して日本を牽制し、昭和一五年一月、条約は失効した。
 昭和一五年(一九四〇)には、ドイツは四月、ノルウェー、デンマークを占領し、五月、オランダ、ベルギーからフランスに侵入、六月にはパリを占領した。七月に成立した第二次近衛内閣は九月、北部仏印に進駐し、日独伊三国軍事同盟を締結した。この直後、アメリカはくず鉄・鉄鋼の対日輸出を禁止し、さらに翌年の日本の南部仏印進駐には、石油類の対日輸出停止でこたえた。このようにして日本の南進策は、東南アジアでの利害を共にするアメリカ、イギリス、オランダとの対立を激化させた。
 この間、国内では高度国防国家建設、一国一党的な新政党の樹立をめざす新体制運動が推進され、政友会・民政党・社会大衆党などの既成政党はつぎつぎと解散した。一〇月には近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足し、道府県、郡、市町村に支部組織を作ることになった。埼玉県では一二月一二日、県知事を支部長とする県支部が結成され、昭和一六年三月には、鶴ケ島村支部が結成され、村長が支部長となった。
 大政翼賛会支部組織の結成に対応して町内会・部落会・隣保班(隣組)と常会(定例会)の整備が進んだ。これらの地域組織は地域住民の親睦交流組織としての一面もあったが、常会、回覧板を通じて国策を国民に徹底させるとともに生活必需品の配給をはじめ、国債、貯蓄、供出、勤労奉仕などの割り当て単位、国策協力事業を実施する連帯責任の単位としての役割をはたした。国民はこれらの組織から「非国民」・「国賊」として排除されては生活を維持することが出来ず、日常生活の細部にいたるまで互いに監視し合うことになった。
 これらの地域組織のほかに、職域・世代・性別に官製国民運動団体がつくられた。労働組合を解散して作られた産業報国会、商業報国会、農業報国連盟、青少年団、翼賛壮年団、大日本婦人会などがその主なるものであった。鶴ケ島村では、昭和一六年に青少年団、一七年に翼賛壮年団、一八年一一月に大日本婦人会、二〇年三月に労務報国会の村支部が各々結成されている。