2 陸軍坂戸飛行場の建設

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 太平洋戦争の前年、昭和一五年二月、陸軍坂戸飛行場の建設が関係住民に知らされた。飛行場用地は、大字大塚野新田の全部と大字五味ケ谷の一部が予定され、国土防衛上一刻も早く建設に入りたいとの説明であった。
 この降って沸いたような話は、地元関係者に深刻な衝激と不安を与えたが、当時の軍の強大な権力と威力の前では、住民の側から権利を主張するすべはなかった。結局、五月から工事着手という国の方針に対して折衝らしいこともないまま、大塚野新田の八戸九世帯と五味ケ谷の一五戸の移転が決定した。
 当時、軍の係官は、土地の有力者宅に泊り込みで調査と打合せを行った。宿泊先には三食付で一泊三円が支払われた。用地買収価格は、土地によって異なり、山林で反当二五〇円、畑で三五〇円から四二〇円程であったという。
 全戸移転を余儀なくされた大塚野新田の住民は、協議の末、大字脚折の北部の字一天狗に永住の地を定めた。同地の御嶽神社境内に建てられた移転記念碑には、次のように記されている。
  昭和十五年五月鶴ケ島村大塚野新田ハコノ地ノ東方二キロノ所ニアリ陸軍坂戸飛行場建設ノタメ買収セラレ全員コノ地ニ移転ス

昭和15年当時の大塚野新田風景(馬橋治子氏提供)

 五味ケ谷では、飛行場敷地内に居住する二戸と、敷地外であるが飛行機の離着陸に障害となるとされた一三戸とが、移転を強いられた。移転先は全員五味ケ谷の内であった。
 一方、大字戸宮は、飛行場建設により村内の他の大字と地理的に分断されることとなった。その結果、行政、経済、社会、教育等の全般にわたり様々に支障をきたし、とりあえず警防団は勝呂村と連携をなし、児童は勝呂村国民学校に転校するという形で対処した。こういった情況の中で、非公式ながら満州への移住の話も軍から提示されるなどしたが、最終的には鶴ケ島からの分離という結論となり、昭和一七年一二月隣村の勝呂村に編入した。
 飛行場は正式名称を陸軍航空士官学校坂戸飛行場といい、士官候補生の飛行訓練が行われた。八棟の格納庫には、戦闘用、爆撃用の練習機が置かれ、それぞれ戦闘機隊と爆撃機隊の訓練に使われた。訓練生は、実戦配備の際には少尉に任官されたが、訓練中の事故も少くなく、五味ケ谷に練習機が墜落し死亡事故を起こしたこともあった。
 昭和一九年に入ると、度々艦載機のP51が飛来し、飛行場への機銃掃射を繰り返すようになり、周辺住民からも直接の被害を被る者が出るようになった。またこの頃には、ガソリン不足のため航空燃料に代わり松根油等のアルコール燃料が代用されるようになり、満足な訓練のできる状態ではなくなっていた。二〇年三月には、とうとう全ての飛行機が、敵機の来襲を避けて坂戸飛行場から撤収していった。
 鶴ケ島村に大きな波紋を投げかけ、地域住民の犠牲の上に建設された坂戸飛行場は、昭和二〇年八月一五日、その使用期間わずか数年にして終戦を迎えることとなった。そして終戦後は、復員兵や外地引揚者が入植し、固められた土がこんどは逆に開拓地として耕作されるようになったのである。