日中戦争の拡大とともに軍需物資が不足し始め、そのため政府は、昭和一六年八月、資源特別回収に関する通達を発し、金属の回収運動をすすめるようになった。埼玉県でもこれを承けて、金属類特別回収実施方策を定め県民に協力を呼びかけた。
昭和一六年一〇月発行の「埼玉県時報」の一面は、「愛国心を昂揚して家庭礦を供出しよう」の見出し記事が載った。そこでは、戦時に於ける金属資源確保が訴えられ、火鉢、蚊帳の吊手金具、箪笥引手金具等に至るまで回収呼びかけがなされている。また同号には頁を改めて「鉄骨火の見櫓の回収運動を提唱」と題する、鶴ケ島在住の高篠喜一氏の寄稿論文が掲載されている。その要旨は、勝利のために国民生活を再検討し、臨戦体制下に資源の活用を訴え、非常時には非常の体制に入ることを強調、国民運動として一日も早く鉄骨火の見櫓の回収実現を訴える、というものであった。これに対して、早くも翌年より各地でその供出が始まり、火の見櫓は除々に姿を消していったのであった。
また「寺院教会等に対する金属特別回収実施要綱」が作られ、寺院の梵鐘の回収も行なわれた。鶴ケ島でも、昭和一八年一月、太田ケ谷の満福寺の梵鐘が回収された。その梵鐘は、当時の住職の記録によれば以下の様なものであった。
昭和十八年一月十八日(戦時) 金属回収統制株式会社
指定商渡(供出熊谷市)
鋳造 明和元年
材質 唐金
重量 百十一貫匁
高さ竜下り中心より 三尺八寸八分
廻り(最下) 七尺一寸六分
外経 二尺三寸二分
竜の高さ 九寸五分
上の廻り 五尺一寸五分
戦局がさし迫ってくると、補助貨幣の回収や白金、ダイヤモンドの供出命令も出された。これら供出物品には代価が支払われたが、わずかばかりの額に過ぎず、終戦後返却されることもなかった。