戦争の激化の中で、海外からの航空燃料の輸送が絶望的な状況となると、その代替として国内でのアルコール燃料の生産が図られるようになった。
そのひとつが甘藷を原料としたもので、鶴ケ島にも甘藷澱粉の生産割当が国から要請された。それを受けて、昭和一九年、系統農業会の介在で、現在の鶴ケ島町公民館敷地に当る場所に澱粉工場が設置された。ここで生甘藷をすりつぶし澱粉を取り、この澱粉からアルコールを作ったのである。澱粉は系統農業会を通じて出荷された。
もうひとつは松の根を原料とした松根油である。
昭和一九年一〇月、政府は松根油の緊急増産の推進を決定、各町村に通達した。特に鶴ケ島には豊富な立松林が存在していたため、松根油の生産地として指定され、現在の共栄地区に海軍の生産指定工場として森谷松根油工場が設立、操業した。工場には地元村民一二~三名が勤務した他、海軍から派遣された下士官と兵数名が常駐管理し、日報を作成して資源局長(森田海軍中将)宛に報告をなした。
鶴ケ島村当局は、各大字に松根油の掘取りと工場への出荷を指示した。松根油の採取は未経験のことでもあり、更にそれを燃料にすると聞いて人々は奇異の感に打たれたが、兵役に関係のない高令者と女性、子供たちが主力となって、多くの労力と時間を費して松根の手掘り作業が行なわれた。工場へは近隣の高萩村や霞ケ関村、大家村などからも松根が搬入された。集まった松根は七基ある大釜で蒸し焼きにされ、抽出されたタールを水と油とに分離し、その油をドラム罐に入れて精製工場に送った。こういった工程で採取される松根油は、フル操業しても一日にドラム罐一本がやっとであった。
こうして住民の銃後の奉仕として行なわれた松根油供出作業であったが、人海戦術により松根の大部分が掘り尽された頃、終戦を迎えたのであった。