一般に、戦争はいずれの国にあっても食糧の需給バランスを崩し、食糧危機を招くものであるが、太平洋戦時に於ける日本もその例外ではなかった。供給面では、召集や徴用による三〇歳未歳の男子農業労働力の減少等の結果、農業生産が激減し、また移輸入も減少した。需要としては、農家消費高が減少し、軍隊米や労務者特配などの配給高が増大した。
この様な中で、政府は農業統制の強化を行なうことで食糧危機の乗り切りを図った。
食糧統制に関しては、日中戦争の始まった頃から政府は米穀の価格調整をすすめ、後に食糧の供出と配給の全過程を統制するようになった。特に昭和一七年食糧管理法が制定されると、供給と配給の体制が一元化されてますます統制が強化されていった。
生産統制に関しては、桑や茶など不急不用の作物の作付を制限するなどして、食糧生産物の増産を図った。また、農業労働力は、学徒動員や女子挺身隊の編成によってその不足を補った。
こういった当時の情勢を背景に、純農村地帯であった鶴ケ島村では様々な食糧増産の試みが実施された。
(イ)共栄地区の開墾
詳しくは第六章第二節「開墾の歴史」で触れるが、戦時食糧確保のために、農地開発営団により村内の一六〇余町歩の開墾が行なわれた。
(ロ)学徒動員
昭和一九年には学徒の勤労奉仕が行なわれた。鶴ケ島では、東京外国語学校(現東京外国語大学)、川越中学校(現県立川越高等学校)、川越高等女子校(現川越女子高等学校)、川越商業学校(現県立川越商業高等学校)等の学徒が各農家で農作業に従事した。中等学校生徒は日帰りであったが、東京外語の学生は三日間宿泊して作業に当たった。
(ハ)海軍の緊急増産
戦争末期の昭和二〇年四月、海軍と埼玉県とにより開墾計画が立てられた。この開墾の目的は、甘藷を増産し、食糧とアルコール燃料の原料に充てるということにあった。
計画は、書類の上では「開墾事業施行ニ付海軍兵力受入申請」という形で村農事会長より県知事宛に提出されている。開墾予定地は大字高倉の一〇町歩、労力は海軍の兵五〇名、期間は昭和二〇年五月一日から一か月間とされた。
村では甘藷苗の供出要請に応え、国の甘藷供出割当てに苦しむ中、各農事組合の協力を得て数万本の苗を確保したが、同年夏には終戦を迎えたのであった。