敗戦後は、民主的な新秩序の樹立という方向を中心として、それに対する否定や修正、ためらい、追随といった、様様な動きが各場面で表われた。
二一年一二月、村の有力者を中心として、「現政情下に処してお互いの福利増進を計る為め新憲法に基き漸進民主化興農団体を組織」しようとする動きが見られた。こうして結成された「鶴ケ島村興農民主連盟」の目的は、超政治的な立場に立ち、日本的民主主義を育成し農村経済を樹立することにあるとされた。これは、台頭する農民組合とその運動への対抗といえるであろう。
二一年一一月、政府は「忠霊碑、忠魂碑等の措置について」という通達を出し、鶴ケ島でも、村はこれらの撤去を指示した。しかし、鶴ケ島第一国民学校(現第一小)敷地に立てられていた忠魂碑、戦捷記念碑は、既に敗戦直後に関係者の手で自主的に埋没せしめられていた。逆にこれらが再建されたのも、昭和二六年、撤去の指示が緩和される以前のことであった。