戦時中同様、生活必需品の多くは配給制であった。食糧品や衣料品も、基本的には各人或は各戸毎に割当てられて配給された。
しかし食糧については、鶴ケ島の場合農家が多く、むしろ供出する側であった。
昭和二〇年は、戦時中からの米の生産停滞に天候不順が重なって、全国的な大凶作の年となった。供出米は不足し、東京をはじめ日本全国が未曾有の食糧危機に襲われた。そのため政府は、米以外にも麦やいも類を農家に供出させることとした。
既に戦時中から、鶴ケ島の農家は甘藷などを供出させられていたが、戦後も、割当てられた主要食糧の供出に苦しんだ。
供出に苦しんだのは、他の地域も同様で、各地とも供出割当量の達成は困難な情況であった。そこで政府は、供出価格の引き上げや、報償制度を採用するなどして、食糧獲保を図った。報償制度とは、供出量により報償物資が与えられたり、超過供出の場合には酒が配給されるなどの特典が与えられる、というものであった。