寄生地主

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前述の経路をたどって、農地改革は実行に移されていったのであるが、五町以上の小作地をもち、村に生活の基盤をもたないような寄生地主は、わが町には存在しなかった。そうすると、わが町の農地改革の目的は何であったのか。埼玉県の場合、主眼とするのは自作農創設であることは前述した。わが町でも、寄生地主制とは関係なく、小作農を引き上げて自作農を創設するのが主眼であったのである。
 その結果、まことに気の毒であるが、零細地主からも小作地の強制買上げが行われることになったのである。
 それでは、その害悪を指摘された小作制度とは何であったのだろうか。
 連合軍最高司令部は、わが国の民主主義を促進し、再び軍国主義化するを防止するため、財閥と寄生地主制の解体を主要課題としたのであった。それは、この両者がわが国の軍国主義の強力な基盤となっていると考えたからである。
 それでは、農村に寄生して軍国主義の基盤になっているという寄生地主とはいかなる地主のことであろうか。
 寄生地主とは、慣用語としては、生活の基盤が主として小作料収入にあり、自作農業の収入が大した意味をもたなくなった地主のことである。しかし、これが歴史的に大きな意義をもつのは、寄生地主の土地所有が経済的・社会的にも、政治的にも大きな役割を果した明治以後の日本の大地主のことである。
 寄生地主は大量の小作地をもつわけであるが、明治三六年以後、戦後の農地改革の行われるまでの間、日本の全耕地のなかで、小作地の比率は四五パーセントを占めていた。なかでも田の小作地率が高く、五〇パーセントを越える年が多かった。これらの小作地の多くは寄生地主の所有するところであった。
 小作地をもつ地主は、大部分は次の二つの類型に属していた。
 第一は、村内居住地主といわれる地主で、江戸時代から村の上層農家であり、村の入会地や農耕用水の管理に強い発言権をもち、自分も相当面積の農業を営み、村の生活で指導的な地位にある地主である。
 第二は、生活の基礎の主要部分を小作料収入(のちには有価証券収入)におき、農民の生活から離れてしまったものである。この地主のなかには、居住町村外にも多くの貸付地をもつ、いわゆる不在地主が多く、所有規模も大きい。
 それでは、具体的に寄生地主の所有耕地は何町歩以上であろうか。日本政府は総司令部から農地改革を迫られたとき、提出した第一次改革案では、地主の所有限度を五町歩以内として、それでは寛大すぎるとして却下されたのであるが、政府は五町以上の地主を寄生地主だと考えていたことを示唆するものである。
 五町以上の地主は二つに分けられる。五町以上、五〇町末満の地主と、五〇町以上の地主である。五〇町以上の大地主が第二類型地主の典型とみることができる。その数は、明治四二年以後には、二、七〇〇戸から、四、〇〇〇戸の間を変動している。(古島敏雄『寄生地主』)。
 それでは、どうしてこうした寄生地主が生れたのであろうか。