寄生地主の発生

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最高司令官に指令された「全人口のほとんど半分が農耕に従事している日本の農業構造を、永きにわたってむしばんできた害毒」というのはこの寄生地主をさしているのである。これは江戸時代から引続いて存在したものではなく、明治六年から一四年にかけて施行された地租改正の結果生れたものである。また「農民の四分の三以上が、小作ないし自小作であり、収穫の半ば、あるいは、それ以上の小作料を払っている。」という小作制度は、寄生地主制が必然的に派生したものである。
 それでは、地租改革はどうしてかかる結果を生んだのであろうか。
 その一つは金納制である。農民が金納地租を納入するには、生産物を売却して貨幣に代えねばならぬ。ところが、地租納入の時期は晩秋から冬季にかけてである。そのため大多数の農民は、この時期に競って米を売却して換金しなければならなかった。そうすると米相場は下落し、貨幣化を急ぐ小農たちは大いに不利となり、逆に、売急ぎしない富農や地主層、米商人にはたいへん有利であった。こうして農民は、凶作の年にはもちろんのこと、豊年のときでも米価下落という苦境に立たされたのであった。
 その二は、改正によって地租は金納となったが、小作料は江戸時代そのままの現物納である。そこで、米価が騰貴すれば少しの現物(米)を現金化するだけで地主は地租納入が可能であった。小作人はこの米価騰貴の恩恵に浴することができないだけでない。米価が下落すれば、その下落した米価で米を売り、生活を支えなければならなかった。
 それだけではすまされなかった。明治一四年以後には、松方財政の紙幣整理政策によって大打撃を受けた。通貨の収縮が始まると、先ず米価が下落し、次いで深刻な不況をともなった。金納定額の地租や地方税を負担する土地所有農民の困窮は甚だしかった。
 この松方デフレのために税金を納められず、土地の競売などの処分を受けたものが三六万七千人にのぼったり、借金を返済できないために高利貸の手にはいった土地の地価が二億円(全国地価の一割)以上と推定されている。しかも、不況の最も甚しかった明治一六~一八年のころ、生活の困窮を訴えて官の救助を願ったもの、餓死寸前にあるものが続出したが、これらは、地租負担者以外の、多数の小作人や、日雇稼ぎの貧農を含んでいた。
 一方、地主の方はどうであったか。
 地租改正では、土地の私的所有権は納税者、すなわち地主にあるとされたので、政府は地租を確保するために、小作人は江戸時代そのままに放置しておいて、地主保護の政策をとった。このため、地主の立場はますます有利にみちびかれた。すなわち、明治一〇年には、地価の百分の三という地租の税率が、百分の二・五に減租され、また、維新以来の不換紙幣の濫発があり、農産物の需要増大に影響されて米価が高騰した。それにともなって、金納地租の収穫に対する割合は減少した。しかも、小作料は現物であるため、その収入は増大する。そのため、また土地の売買価値は騰貴して、法定地価との差は増大する。明治六年の田の法定地価に対して、二三年の買売価格は約三四パーセントの高騰を示したのであった。ところが金納地租は固定されているので、地主の取前は次第に増大した。しかもこの間、小作料はいぜんとして現物であり、収穫の四九パーセントを占めていた。
 表-36で示すように、小作地率については、地租改正当時に三一パーセントであったが、明治一六、七年には早くも三五・五パーセントに達し、明治二一年には三九・五パーセントとなり、三五年には四四・五パーセント、四一年には耕地の四五・五パーセントが小作地である。また、自作・小作の農民の割合をみても、明治一六、七年から二一年にかけて、自作農の減少、小作農の増加と対照的な数字を示し、その趨勢は四一年に至っている。
表5-36 農民の自小別構成と小作地率(単位:千戸)
年次自作自小作小作合計小作地率
戸(%)戸(%)戸(%)(%)
明治6------5,64031.1
16~172,028(37.3)2,273(41.8)1,136(20.9)5,43735.5
211,834(33.3)2,484(45.1)1,190(21.6)5,50839.5
321,931(35.4)2,095(38.4)1,429(26.2)5,456*44.5
411,806(32.9)2,190(39.9)1,493(27.2)5,48945.5
*印は,明治35年(1902)の小作地率。中村政則『労働者と農民』より

 これに対して地主は、地租改正当時は六八パーセントの小作料のなかから、半分にあたる三四パーセントを国家に納めなければならなかったが、明治一六年頃になると、土地集中を進め、国家取分の一〇パーセント、地主取分五八パーセントというふうに圧倒的な収入を増加した(図-9)。

図5-9 地租改正前後における収穫米の取り分
一橋出版『日本史図録』より

 このように、地主は法制的にも政府の保護を受ける有利な立場にあり、しかも、収穫米の取分は益々増加して、余剰の資本で貧農の耕地を集積した。なかには巨大地主となって寄生地主といわれるようになった。
 これに反して、地主に耕地を兼併された貧農の状態はどうであったか。