小作争議

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このような弱い立場にある小作人も、小作料の引上げ反対、小作料減額、その他小作条件の改善などを歎願し、時には団結して争議行為に出ることはあったが、多くは哀訴歎願であって、衆を頼んで押しかけるなどのことは絶対に禁物であった。従って、小作争議として全国的に行われたのではなかった。それも日露戦争以前に発生した小作紛争は早水害による凶作、その他の収穫関係で起ったものが多く、このような紛争は局地的・一時的、また非組織的であって、階級意識に目ざめた闘争ではなかった。日露戦争(明治三七・八年)後、特に明治四〇年頃になると、戦後の好況を迎えたが、それも一時的で明治四一年には世界恐慌に巻きこまれ、企業や中小銀行が相次いで倒産した。この不況は長くつづいたが、特に農業生産の停滞、農村の窮迫は、社会問題として取り上げられるようになった。
 このような農村窮乏のさなか、四三年には、米穀検査規則が施行された。地主はこの規則を利用し、早速、米の品質向上を小作人に要求した。これに対し小作人はその代償として、小作料の引下げや、奨励金の交付を要求し、西日本を始め各地で多数の争議が起こった。この頃になると、争議も組織的になり、明治四一年~大正六年には一七三の小作人組合がつくられた。
 小作争議が全国的に起こり、本格的になったのは第一次世界大戦(大正四~七年)の後である。この大戦で連合国が民主主義・平和主義を提唱したことや、ロシア革命(大正六年)・米騒動(同七年)などをきっかけにして、日本でも社会運動が勃発した。大戦中の産業の急速な発展によって、労働者の数は大幅に増加したが、大戦中の好景気の反動として恐慌が起こり、物価高で生活は苦しく、そのために労働運動が高まり、労働争議は急速に増加した。農村でも、その後につづく農村不況期に小作人は窮乏を深めた結果、活路を小作争議に求め、小作料の減免や、引上げ反対を要求する小作争議がひんぱんに起こり始め、大正六年には争議件数八五にすぎなかったのが、大正一〇年には一、六八〇件と飛躍的に増加した。その後、大正末まで増加しつづけ、昭和元年には二、七五一件に達した。これが小作争議の第一頂点である。このような中で、各地に小作人組合がつくられ、更に全国的組織として、大正一一年に日本農民組合が結成された。
 昭和初期、一、二年の間は下火になったが、昭和四年になると再び増加し始め、昭和一〇年に最高に達した。これは、昭和農業恐慌の深化とともに、農民の窮状はなはだしく、必然的に争議の激発となり、第二の頂点となったのである。
 やがて、昭和一六年、太平洋戦争に入ると、公然たる争議は禁圧された。しかし戦時中も、村の内部では地主・小作間の争議が何らかの形でつづけられ、完全に小作争議の火が消えたことはなかった。終戦後、一時小作争議が再発したが、農地改革で地主制が解体されたので、自然に消滅した。
表5-40 小作争議件数年表
年次件数
大正6年85
  7256
  8326
  9408
  101,680
  111,578
  121,917
  131,532
  142,206
昭和12,751
  22,052
  31,866
  42,434
  52,478
  63,418
  73,414
  84,000
  95,828
  106,824
  116,759
  126,170
  134,615
  143,576
  153,165
  163,308