第一次世界大戦後の大正九年に襲来した経済恐慌は、中小農、特に小作農の生活を窮迫のどん底に突き落した。今まで地主の下で温順に暮してきた小作人も、この窮乏に堪えきれず小作争議を各地にひき起した。あたかも昔の百姓一揆のようであった。政府もこの事態を静視できず、大正九年に小作制度調査委員会を設け、小作問題の調査にあたらせた。その後も、小作制度調査会・小作調作会と名称を変えつつも、次の四つの項目の検討がなされた。
(1)小作争議の鎮静をはかるための小作調停法について。
(2)小作農を自作農にするための自作農創設維持について。
(3)(4)は省略
しかし、実際に法律なり規則なりで日の目をみたのは、小作調停法と自作農創設維持規則であった。
小作調停法によると、小作料その他小作関係で争議が生じたときは、調停委員会が地主・小作人間を調停して、争議の解決に導くというのである。しかし、この調停には強制権はなかった。そこで、生活の窮迫のため、また因襲深い地主・小作関係のため、小作人は、この力弱き調停法によって争議を解決することは少なくはなかった。それでも、争議が一度深刻化すると、このような手続では何らの効果をもたらすものではなかった。かえって、この法律は争議の調停を口実にして、弾圧を法制化するものだとして、地主に有利な小作鎮定法だと名づけられた。かくて事実上の効果は少なかった。
自作農創設維持規則では、二五年間に全小作地の二三分の一を自作地化する計画であったが、甚だ微力であって「二階から眼薬を垂らすにも等しきもの」として重視されなかった。
〔参考文献〕
小野武夫『農村史』
同 『近代農村発達史論』
永原慶二『日本経済史』
文部省『農地改革』
『埼玉農業年鑑』(一)
『埼玉要覧』(一九四九年)