明治二五年(一八九二)、それまで西部地区の児童が通学していた鶴ケ島学校上新田分教室が廃止となった。そのため、三字児童の中から、大家尋常高等小学校へ通学する者が続出するようになった。
このような矛盾を是正しようと、三字は合議の上、分教室の復活、あるいは委託教師の派遣を村当局に申請したが、いずれも実現には至らなかった。そんな中で、昭和五年には、最初の村からの分離運動が大字町屋に起ったが、県視学の調停等により早々に和解の運びとなった。この時の和解条件は、「①低学年児童は大家尋常高等小学校に通学させ、その負担金は鶴ケ島村で支払うこと、②鶴ケ島尋常高等小学校通学者には奨励金を交付すること。」といったものであった。①の条件は果たされなかったが、②の通学奨励金に関しては、町屋、上新田、中新田の各字に格差をつけて交付されることとなった。しかし、太平洋戦争の開戦前後になると、国情を理由に通学奨励金も廃止となった。
以上のような経過を経て、戦後の自治意識高揚の中、潜在的な住民感情が、東部地区の鶴ケ島第二小学校校舎増築計画を引きがねに、一気に火を吹いたのが分村問題である。