第二小学校校舎増築計画は、鶴ケ島新制中学校新築計画とともに、昭和二三年度に村議会で議決された。この決定に対して、大字町屋、上新田、中新田の住民の間に、強い反発の空気が流れた。反発の根拠は、既に述べられている経緯をベースとして「①昭和一五年に大字戸宮が勝呂村(現坂戸市)に編入したことにより、第二小学校存続の基本的理由は無くなった。②第二小増築の必要があるとするならば、それ以上に西部地区に小学校を設置する必要がある。」等といったものであった。要するに、西部地区の住民は、自分たちの教育の機会均等の原則が、著しく侵されていると考えたのである。
このような状況の中、二四年三月三〇日の村議会で、就学奨励費の交付が議決されたが、問題の抜本的解決には遠かった。そして、三字の有志、及び村長、議長等との間で、度々の協議がもたれたが、事態の収拾に至らぬまま、五月一一日、中新田の部落会議で分村決議が出され、一二日町屋、一三日上新田と相継いで分村の決議が成立した。一三日夜には、三字より選出された委員が集会を持ち、以下の決議文が作られ、ここに初めて公のものとして分村問題の火蓋が切られることとなった。
決議
部落ノ地理的特殊事情ニヨリ鶴ケ島ヨリ分離シ大家村ニ合併セラルゝ様総意ヲ結集シテ一途ニ進マン
右決議ス
昭和二十四年五月十三日
大字中新田(連署調印)
大字上新田(連署調印)
大字町屋 (連署調印)
三字住民がこのような思い切った決議をなした理論的裏付けは、次のようなものであった。
A、三字ともに、村役場、農協、小学校に至る距離が、鶴ケ島村よりも大家村の方が至近である。
B、大字町屋住民は、大家村大字森戸の住民とともに、森戸の神社、寺院の氏子であり檀家である。
C、大字中新田、上新田住民は、大家村大字森戸及び厚川の住民とともに、森戸及び厚川の寺院の檀家である。
D、三字の耕地一五〇町のうち、大家村民の出耕作は約半分の七〇町歩であり、三部落の水田耕作者は九割九分まで大家村に出耕作している。
五月一五日には、鶴ケ島村々長に申達書提出、大家村々長に編入申入れ、更に両村長及び入間地方事務所長にも陳情書が提出された。以降夏場にかけて、分村に関わる様々な動きが見られ、混乱の渦中で、六月一日には上新田出身の石塚米吉村長は辞表を提出、政務は宮沢泰蔵新村長に引き継がれた。