再度の可否保留を経た九月七日、村議会は「大字中新田、上新田、町屋の分村陳情」を、一五対三で否決した。これにより、それぞれの置かれた立場の違いから、分村に関する三字の態度には微妙な相違が生じてきた。
大字中新田は、他の二字と比べ地理的にも比較的村の中央に近く、大家小学校に通う児童も少なかった。従って、あくまでも分村を貫くという姿勢はとらず、九月七日以降は村当局と条件面での交渉に入ることとなった。
一方上新田、町屋にあっては、分村が議会で否決された九月七日当日、早速「陳情書」「訴願」を村長と村議会とに提出した。その後も度々村当局との協議や県への陳情を重ねたが、問題の解決には至らぬまま、二五年度には上新田、町屋の児童の大部分が大家小学校に転校するという手続きがとられた。同年四月四日には、大家村々長から、両字の大家村編入申入れに対する無条件受入れの回答が寄せられている。
しかし、村当局と両字住民との間で、ねばり強い話し合いが続けられた結果、昭和二六年、大字上新田と村当局との間に妥結をみることとなった。
大字町屋の場合、その地理的な位置とそれまでの大家村との密接な関係から、大半の住民があくまでも分村を貫こうとの意志を有していた。しかし、二八年に入ると、相方の歩み寄りにより和解に至ることとなった。
分村問題を通じて実現したのは、次の事項であった。
①通学奨励金の支給
③地区公民館の建設
③通学道整備
④一部児童の大家小学校への通学の認可 等