以上の経過を経て、足かけ五年にわたる分村問題に、一応の終止符がうたれた。とはいえ、問題を生じさせた根本原因は依然として放置されたままであった。即ち、その後も三字からの大家小学校通学者は減少することなく、昭和四〇年代に入ると遂に大家小学校通学者の三分の一が鶴ケ島出身児童であるという異常な事態を迎えることとなった。
問題の抜本的な解決がなされたのは、昭和五三年四月、上新田に新町小学校が開設されてからのことである。これにより初めて、明治期からの極めて長きにわたる大家小学校依存という教育行政上の矛盾に帰因する、諸問題が解消したのであった。