坂戸町、三芳野村、勝呂村、入西村、大家村及び鶴ケ島村の一町五か村は、従来から行政的にも産業、交通等の面においても、坂戸町を中心とした緊密な関係を有していた。この様な事情から、先述の合併試案が作製されたのであるが、関連町村では更に調査、研究を重ねるべく、一町五か村合同の、或いは各町村独自の町村合併研究会を設置するなどして、話し合いを進めた。
これら町村の中にあって、坂戸町は県合併試案に全面的に賛意を示し、三芳野、勝呂、入西、大家村の場合も、大枠で県の合併試案支持の方向に固まっていった。ただ鶴ケ島のみが、人口規模及び財政状態等が他の適正規模町村に準じていたことなどを理由に、県試案による合併には消極的であった。
鶴ケ島における町村合併研究会において、当初有力であったのは霞ケ関、高荻、鶴ケ島による三村合併案であった。これは、県試案に対する対抗試案の意味を持ち、畑作地帯同士でまとまっていこうというものであったが、他の二村の同意が得られぬまま立ち消えとなり、次いで大家村との合併に方針が固まっていった。これも、鶴ケ島からの呼びかけに対する大家村民の反応は好意的であったというが、実現をみるには至らなかった。
昭和二九年七月、鶴ケ島を除く一町四か村は、合併して新町を発足、新町名を坂戸町とした。これにより鶴ケ島の村内世論は再び分裂し、地域により新坂戸町或いは川越市との合併を希望するなど意見が分れ、分村問題の再燃という事態に直面した。そこで、村の解体を回避するため自主独立の体制を整えるという方向に転換を余儀なくされ、昭和三〇年四月の村会において、「広大なる面積と七千余の人口を有する此の村の現状と合併町村の推移情勢を検討し自立体勢を確立し現状を継承文化農村の建設に努め住民福祉の増進を計ることが最善の方策であることを確認する」という決議をなすに至った。