「新市町村建設促進法」の制定と「鶴ケ島村建設計画」

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昭和三一年六月、「新市町村建設促進法」が制定され、町村合併の総仕上げが図られた。これに連動して、埼玉県においても「埼玉県新市町村建設促進審議会」が設置された。
 本県の町村合併は、「町村合併促進法」施行(昭和二八年一〇月)以来、同法が失効した三一年九月までの間に、新たに九市五八町村が誕生、逆に二二四町村が減少し、国の合併計画全体に対して一〇一パーセント、県の合併計画に対して九二パーセントの進捗率を示す好結果をあげた。こうした中で、八パーセントの未合併町村のひとつである鶴ケ島に対して、三一年一一月には現地実情調査が行なわれている。そして翌年の三月、坂戸町と鶴ケ島村の合併に関して県知事名で勧告がなされた。
 この知事勧告には強制力はなかったが、村としてもこの事態は深刻に受け止めざるを得なかった。村民の全体的意向としては、既に有権者の九八・七パーセントに当る独立賛成者の署名捺印が県に提出されているという状況であった。従って、独立可否の焦点は、村の政治的・経済的・文化的力量の有無に絞られていった。
 こうしてでき上ったのが、昭和三二年一一月に議決を受けた「鶴ケ島村建設計画」である。同計画は、昭和三二年度から三六年度を計画年度とし、以下の六項を骨子として策定された。
 一 建設基本計画
 二 行財政運営の合理化に関すること
 三 施設の整備と振興対策
 四 開発対策に関すること(工場誘致対策・駅付近の発展対策・駅の新設促進等)
 五 その他(村行政に関する広報活動・新生活運動の普及等)
 六 年度別財政計画(昭和三二年度~三六年度)
 この建設計画にあって、関係者の間で当時最も重視されていたのは「四 開発対策に関すること」でありわけても工場誘致対策は、独立鶴ケ島の発展にとって不可欠の事項であると考えられていた。既に二九年四月には、「工場誘致条例」が制定され、その目的は、産業の振興と村政の進展を図ることにあるとされた。具体的に意図されたのは、税収入の増大と地元民の雇用対策である。そして、誘致のための優遇措置としては、対象となる工場に対する固定資産税の範囲内での奨励金の交付が、条例に定められていた。
 工場誘致が具体化し始めたのは、昭和三二年頃からであったが、特に養命酒製造株式会社鶴ケ島工場の建設は、大工場の鶴ケ島村進出の先駆けとして注目に値する。同工場建設は、税金面、雇用面、農作物消費の面などから見て、村政の重大関心事であった。その後、東光ラジオ、野沢石綿等の工場進出が続き、純農村地帯といった鶴ケ島村の性格は、除々に変化を遂げていったのである。