徳川幕府は、農民の自給的生活を確保し、年貢納入を確実にするために、あらゆる手段を講じたが、農民の職業の制限はその一つであった。その結果、農村では農業以外の職業に従事するものは、ほとんど見られなかった。幕末の「村差出明細帳」を見ると、
「農業の他、修験道相稼ぎ申し候」(脚折村)とあるのは、山伏の仕事は余業(アルバイト)であるということである。
「大工・鍛冶(かじ)、その他職人御座なく候。」
「油屋・桶屋・鍛冶屋・馬喰(ばくろう)御座なく候。」
「商売屋御座なく候。」
「家大工壱人、其他諸職人御座なく候。」
「医師壱人 本道(ほんどう)(漢方医術で内科のこと)休安(きゆうあん)。」
それが明治七、八年頃でも、
「男女、農を専(もつぱら)とす」が、一四か村全部である。農の他に、桑と養蚕を加えたのが、上新田・中新田・高倉である。脚折が農の他に樵を加えたのは、大塚野新田の「傍(かたわら)、採薪を業とす」と同様の意味であろう。
その後の産業別人口統計は資料不足だから、大正九年以下を表示する。
昭和一五年頃までは、まだ純粋の農村であったが、戦後になって第一次産業就業者の割合が減少し、第二次・第三次就業者の割合が激増し、昭和五五年になると第一次産業従事者はわずか五・三パーセントである。この町が東京のベッドタウン化した現状を示すものであろう。
〔註〕
第一次産業 農業・林業・水産業・牧畜業
第二次産業 鉱業・製造工業・建築業
第三次産業 商業・医療・教育・保険・金融・輸送、その他
図5-18 産業別就業者割合
国勢調査から作成