鶴ケ島町の歴史は開墾の歴史である。しかしこのことは、単に鶴ケ島町だけのことではなく、それを含めた武蔵野全体の開墾の歴史ともいえる。従って、先ず武蔵野の開墾の歴史から調べてみよう。
古代には、東京都多摩郡から入間郡・高麗郡にかけて、茫々(ぼうぼう)たる原野であった。これを総称して武蔵野といった。後世になると、それが分れて、入間野や高麗が原といわれるところができた。高麗が原は、今の日高町新堀あたりから、川越市的場まで、南北一三・四町(一四、五キロ)、東西二里半(一〇キロ)ばかりの、無限の平原であった。霊亀二年(七一六)高句麗(こうくり)からの移住者が来る前、まだ高麗郡がおかれない時分には、未開の原野が限りなく広がる閑地であったであろう。
つまり、武蔵野といい、入間野、高麗が原というが、全体としてはみんな武蔵野であって、広漠とした曠野が西に広がって、秩父郡あたりまで延びていた。それがだんだん開墾されて、田畑となったり、村落となったりしたのである。
以上は、『新編武蔵風土記稿』高麗郡総説によって書いたのであるが、このような武蔵野の状景は、文化・文政ごろにもなお残っていた。武蔵野の草原を背景にして、古歌に詠まれた景観を古代に延長して、述べたものであろう。
武蔵野といえば、
武蔵野は月の入るべき影もなし 草より出でて草に入りぬる
出づるにも入るにも同じ武蔵野の 尾花をくぐる秋の夜の月
(玉葉集)
というように、広漠たる原野を想像するのが常である。しかし古代から、
逢う人に問えど変らぬ同じ名の いく日になりぬ武蔵野の原
(続古今集)
のように、何日も何日も、行けども行けども、同じ武蔵野であるといった、限りなく広い草原であったわけではない。
その歴史は、第一に森林時代で、シラカシ・ヤブツバキ・モチノキなどの照葉樹林の時代(宮脇昭「幻の森」)、第二は半森林・半農牧・半草原の時代、第三は草原時代である(鳥居龍蔵「武蔵野及其周囲」)。第一の時代は繩文時代で、第二は古墳時代、第三は奈良時代を、鳥居氏は想定している。そうすると、初めから決して、のっぺらぼうの草原ではなく、自然林が伐り倒され、あるいは焼きつくされたのは、奈良時代以後のことになる。焼畑農業では、森林や原野に火をつけて焼いてしまい、そのあとに種をまく。そうすると、開墾して畑を作る手間が省け、焼灰はそのまま肥料となる。また、広大な原野ができれば、馬を放牧して牧場となる。こうして広大な武蔵野が誕生したのである。この広大な武蔵野は決して無人ではなく、そのどこかには焼畑農業をいとなむ古代人の集落があった。その生活の跡は、発掘によって発見される竪穴(たてあな)住居址に見られる。
武蔵野が草原化する奈良時代になると、その初期に高麗郡に高句麗人が、新座郡に新羅人が渡来した。彼らは朝廷から田と食糧を支給されて農業に従事したが、その本来の任務は、この未開の武蔵野を開墾することであった。彼らは大陸伝来の秀れた焼畑農業の技術をもっていたし、鉄製農具も自製したらしい。
奈良時代からのち、江戸時代まで、九百年間の、郷土開発の歴史については、記録の上では探ることはできない。ただ発掘によって、奈良・平安時代の住居址が発見されているし、また、鎌倉・室町時代は青石塔婆の出土によって、ここにかなりの集落があり、人々の生活が営まれていたことが知られるので、それによって、開発が絶えず進んでいたことが分るだけである。
一方、武蔵野の開発については、鎌倉時代から絶えず開発が行われ、小田原北条氏も盛んに開墾を奨励したことは記録の上に現われている。