中世に、高倉村が全村をあげて、現在地に集団移住をしたという伝承がある。これは恐らく広大な高倉野の開墾のためであっただろう。また、町内に落武者伝承がたくさんある。太田ケ谷では、鎌倉落人(おちうど)内野常福が一四人の一族・家来を引連れて定住したという。上広谷の岸田家は奈良県山辺郡岸田の里から出たという。脚折の平野・高沢両家も落人だという。三ツ木の吉沢家も川越の南方から来たという伝承がある。
中新田の高篠家については後述する。これらの落武者は、生活を維持するためには、現住地を開墾したものとみなければなるまい。また、現在、各部落の中心ではなく、周辺に住居をもつ農家は、他所からの転入者だとみられるが、転入には必ず開墾を伴わなければならない。
開墾がはっきり記録の上に現われるのは江戸時代からである。ちなみに、昔は開墾という字を使わず、開発と書き、「かいほつ」と読んだ。
江戸時代に入る前に、鶴ケ島町の地勢を見てみよう。
埼玉平野が西にきわまって、いよいよ外秩父に近づこうとするところに、秩父山地や高麗丘陵をふち取っている広大な台地がある。鶴ケ島台地はその一つである。この台地の上を飯盛川と大谷川、その支流の二つ、合せて四つの小川が流れている。おのおのの川は、樹枝のような窪地を、台地に刻みこんでいる。その窪地には谷(や)つ田が造られている。各小川の上流には溜池が築造され、湧水を貯えて、灌漑用水を供給している。こうした場所は、農業を営むにも、人が住むにも好適な条件を備えているので、江戸時代までには、谷つ田の水田開発はもう終っており、開発はもっぱら台地上の樹林や草原に向けられていた。
江戸時代は、世の中が平穏になったのと、徳川幕府が財政を豊かにするため、積極的に奨励したため、農地開発が急速に進んだ。
この時分、関東では、小田原北条の遺臣をはじめ敗戦の浪人たちが大ぜい農村に住んでいて、不平不満の生活を送っていた。幕府はこの人たちを慰めて、土着帰農をすすめる政策をとった。これは、領内の治安維持のため、ぜひ必要なことであった。これらの浪人の開発した新田を、土豪開発新田(※)という。
※ 土豪開発新田の他に、代官見立(みたて)新田・村受新田・百姓寄合新田・商人詰負新田がある。
鶴ケ島で土豪開発新田が始まったのは、高倉村内であった。戦乱を避けて、秩父高篠村に隠遁(いんとん)していた、坂戸市厚川の高篠庄兵衛が帰ってきて、さっそく開発を進めたのである。庄兵衛の開発記録が、中新田の高篠家に残っているので、それをもとにして記してみる。いかにも上豪らしい書き方が目につく。
元和九年(一六二三) 三田左京(のち改めて高篠隼人(はやと))が六道を開く。六道とは、ここでは小六道をさし、今の中新田である。
寛永二年(一六二五)より大六道(上新田)を開く。二つの村を、「庄兵衛新田」ととなえ、二五年の間(一六五〇年まで)これを領す。
正保四年(一六四七) 隼人の次男長兵衛を(小)六道へ出す。同妹(元名主の家)を出す。
慶安元年(一六四八) お繩(検地)を幕府へ願い出たところ、一一月にお繩が終る。苗字・帯刀を許さる。
慶安二年(一六四九) 大六道がお繩入りとなり、上新田と称えることになる。小六道は中新田と称える。
庄兵衛は永久に両村の支配役を仰せつかった。これは名主となったことであろう。
また別の記録がある。
上新田は延宝年間(一六七三―八〇)に、森戸村の農民が出た。その草分けの小川一族は森戸系の小川家で、板倉・石塚は森戸に寄留していた人々である。森戸の村民は上新田のことを前新田と呼んだ。ここを六道村と称えたことは、六地蔵の石碑や、脚折の白鬚神社の棟札(むなふだ)を見れば明らかである。中新田は厚川村の農民が出たもので、全村はほとんど高篠氏であり、まれに森田氏がある。下新田は浅羽村の出百姓で、宇津木・綿貫氏は浅羽系で、小鮒氏は厚川系である。
この三新田は、その時の代官大河内金兵衛が指図して、高麗川べりの村々に命じて、三新田の設立を目論(もくろん)んだものである(大徳周乗)。
これを見ると、三新田は代官大河内金兵衛が計画した代官見立新田であり、高篠庄兵衛の名は出てこない。しかし大河内金兵衛は、上中下新田設立のときに計画・援助したもので、上中新田については、それより前から庄兵衛の手による開発が、徐々に進められていたのである。そして大六道・小六道の名は天正二年(一五七四)にはすでにあったのである(白鬚神社棟札)。ここは、無人の原野に開墾の鍬をふるったのではない。上中新田は土豪開発新田として発足し、のちには下新田をも加えて代官見立新田となった。そして資金も技術も幕府の積極的な援助のもとに、開発を完成したのである。
新田開発に伴って必ず起ってくるのは、秣場(まぐさ)の問題である。台地上に広がる広大な原野は、周囲の農民にとって、重要な肥料源であった。馬草場とも書くが、みんなが馬を飼っているわけではないから、馬の飼料だけにまぐさが使用されるのではない。この時代の豊業には、秣場から刈り取る大量の青草が、肥料として使われていた。新田開発は秣場の減少となり、肥料を得る場所がそれだけ狭くなるのだから、周囲の農民にとっては、生活上の重大問題であった。
高倉のばあい、高倉野とあるように、原野であり、浅羽・厚川・鍛冶屋・萱方(かやがた)の四か村は他村と入会いで、馬の飼料と、青草を刈り取っていた。ところが、新田造成のためにだんだん削減され、その上、次のような事件が起った。他に採草地もなく、高倉野だけに頼っていた四か村の農民は、困りはてて、幕府へ出入(訴訟)を申し立てた。
馬草場出入
相手 訴訟人
脚折村 喜兵衛 浅羽・厚川・鍛冶屋・
高倉村 庄兵衛 萱方・四か村の代表者
勘左衛門
三七年以前(寛永一六年)に、大河内金兵衛様が、浅羽村・厚川村の表(おもて)に新田を造るように仰せられました。もちろん田地持ちばかりでしたから、各家々とも分家して、新田へ出百姓を送りました。それから後も、この原野で馬草を入会いで刈っておりました。ところが、浅羽村と厚川村の表(おもて)の芝間(しばま)(採草地)に新屋敷や新畑・新林をたくさん造るよう仰せがあり、少しばかり残っている芝間も、馬草はいっさい刈ってはならぬと留められました。人馬ともに困っております。前々の通りに、入会いで馬草を刈れるように、脚折村喜兵衛と高倉村庄兵衛・勘左衛門を召し出され、仰せつけ下さればありがたく存じます。
右に書き上げた事柄は、お尋ね下されば、口上で申し上げます。
延宝四年(一六七六)十二月九日
御奉行様