単に奨励だけではない。新田の呑水堀・田用水・溜井などを作る普請場(ふしんば)を指定し、集まった人足には、その力に応じて食料を配給した。朝、仕事にとりかかるとき、人足たちに木札を渡しておき、夕方の帰りぎわに、この木札と引きかえに麦を手渡したのである。木札に五種類あって、鍬を振う屈強な男は仁(麦三升)、それに次ぐ男・女は義(二升)、笊(ざる)などを持って土運びや雑用をする女は礼(一升五合)、子供のお守りをする智(一升)、産着(うぶぎ)がやっと取れたような赤ん坊でも信(五合)というように、ともかく普請場にやってきた者には、みんなに与え、その力相応に働かせた。
この工事は脚折でも行われた記録がある。ここでは「御救い御普請浚(ごふしんさら)え」という名称である。「右溜池の儀は、先年、御代官川崎平右衛門様〝御救い御普請浚え〟なし下され候後、残り分押し埋もり申し候」というのである。ここで溜池というのは雷電(かんだち)池のことであり、土砂で埋まっていたのを、平右衛門が新田百姓を救うため、土砂浚えの土木工事を行ったのであるが、残り分が埋まったということである。(寛政五年「飯盛(いいもり)川用悪水浚御普請目論見(もくろみ)帳」による)