こうして武蔵野の開発が進んでくると、平右衛門は農民の生活を守るため、飢饉に備えることも忘れなかった。収穫が終った直後、大麦・小麦・粟(あわ)・稗(ひえ)・鳩麦(はとむぎ)などを、相場の一、二割増しで買上げ、村ごとに貯蔵させた。この貯穀は次の代官伊奈半左衛門の代までつづけられ、貯穀の増加に伴ってそれを売却し、それを利殖し、その利息を「養料金」として、毎年各戸に配分するようになった。この養料金の支給は幕末までつづけられた。
彼は貯穀の他に、肥料についても心を配った。従来の刈敷用の原野を開拓したのであるから、いきおい金肥を導入しなければならなかったが、豆の絞り粕(しぼりかす)や干鰯(ほしか)などを、江戸から一まとめに仕入れて、安く農民に分け与えるようにした。