第一例 あるとき下役が出百姓の家を戸毎に訪ねて歩いていたときに、一軒の農家へ入ると、見かけは達者そうな若い女が、炉(ろ)のうちへ足を踏みこみ、背を丸めてかがんでいた。聞くと病気だという。よく見るとその女はやっと腰を覆うだけの、ぼろぼろのつづれを着けているだけであった。これでは、夫食稼ぎのため普請に出ようにも出られないのである。様子をみてとった下役は、すぐ名主の宅へ行って、着物を貸してやるよう指示した。果(はた)して彼女は翌日から普請場へ出るようになったという(「高翁家録」)。同じような、役人の目にふれない、新田農民の悲惨な生活の話はまだたくさんあったのであろう。
第二例 武蔵野の名物は冬の「空(から)っ風」である。大陸から日本海を渡ってきて、途中、関東山脈にその湿気を吸い取られ、乾き切った風が武蔵野を襲ってくる。すると武蔵野の湿気を吸い上げてしまう。土はバラバラになって吹きまくり、咫尺(しせき)を弁ぜぬほどにする。このカラッ風について、古河古松軒は出百姓の話を伝えている。それによると、武蔵野に草刈りに出たときには、杭を打って草籠を縛りつけておかねば、籠は一里も二里も吹き飛ばされ、場合によっては、草刈る人の体まで吹かれて五町も十町も転げてゆくというのである。また、開発当初、粗末な掛小屋に住む百姓達は、少し強い風の吹く時には小屋の外に出て、畔(あぜ)に植えてあるウツギの木の蔭(かげ)に潜んでいたという。ウツギは土砂のカラッ風に吹きまくられるのを防ぐために植えられたものである。(古河古松軒「四神地名録」)
こうした苦難のうちに、多摩郡・入間郡・高麗郡にわたる八二か村(七八か村ともいう)、五百町歩の武蔵野新田が開発されたのであった。明和(一七六四~七一)・安永(一七七二~八〇)期になると、新田の生産は急速に上昇し、商品作物も一斉に展開して、新田の繁栄期を迎えた。ただし、ここに至るまでには、武蔵野新田の開発がスタートしてから、約半世紀の年月が必要であったわけである。
川崎平右衛門はこのような多年にわたる武蔵野開発の功によって、武蔵野新田世話役から、支配勘定格にとり立てられることになった。寛保四年(一七四四)のときであった。やがて寛延三年(一七五〇)になると、美濃に赴任(ふにん)し、笠松陣屋で四万石の天領を支配することになった。彼の主要な仕事は、輪中(わじゅう)地帯の治水であった。彼の治水事業によって、中山道の南、一二か村九百戸の農民と、八百町歩におよぶ田畑が水害から免れることができたという。
晩年の明和四年(一七六七)、ついに勘定吟味役(勘定奉行の下で、目付役を兼ねる)に任ぜられ、石見(いわみ)銀山奉行を兼務することとなった。その一月後には布衣(ほい)を許された。かつての府中領の片田舎にいた一名主が、今や幕府の財政を預かる枢要の地位についたのであった。
だが、彼はすでに七四才の高齢に達していた。勘定吟味役に昇進してわずか一か月半後、明和四年(一七六七)に老衰をもって永眠したのである。墓は押立村(府中市押立町)竜光寺内にある。
鶴ケ島中学の東方、旧県道を隔てた畑の中に、土手に囲まれて三角原陣屋跡が残っているが、そこに小さい祠(ほこら)が立っている。正面に川崎大明神、右側面に武蔵野御救い氏神、左側面には高倉村・同新田持ちと、造立の村名が刻まれている。裏面には森戸新田・脚折新田・下新田・下高荻新田・町屋新田・三ツ木新田と、造立助力の村名が連記してある。
これは寛政一〇年(一七八九)、平右衛門の二十五回忌に、新田農民たちがその厚恩を偲(しの)んで建立したものである。
「川崎大明神」石祠
この年は、元文三年(一七三九)の大凶作で渇死離散の苦難をなめてから五一年たち、新田の繁栄期といわれる明和・安永期からも二十余年の歳月が経過している。農民たちは、感謝と追慕の気持とともに、この広大な荒地の開発に取組み、やっと楽土を建設した喜びをかみしめていたことであろう。この小祠は単なる顕彰碑ではない。平右衛門を大明神として祭る素朴な感謝のうちに、出百姓たちの生活安定の喜びを感得すべきであろう。
〔参考文献〕
「高翁家録」(川崎平右衛門定孝事績録)
『国分寺市史料集』(川崎平右衛門関係文書)
『府中市史』上巻
菊地利夫『新田村落』
木村礎『近世の新田村』
木村・伊藤『新田村落』
村上直『代官』
藤倉寛三「雷電池の用水路について」