下新田開墾は、昭和初期の大恐慌に伴う農村不況打開のために始められたものである。畑不足のため小作契約を結べなかった小作農家にとって、開墾は必然の成行であったといえる。
昭和五年一〇月、鶴ケ島第一耕地整理組合が発足、組合長に中里喜三郎が、書記に武藤儀重が就任した。組合は、「失業救済農村漁村臨時対策低利資金」を運用し、県から四割の補助を受けて開墾に当った。開墾地は大字下新田字羽折の二〇町歩程の松林で、後に二五町歩に広げられた。
開墾には、農林省と県から借り受けた円盤犂付三〇馬力トラクター二台が使われた。起こされた土地は、小学校の児童なども動員して整地され畑地として造成された。ここには村外から三世帯が入植し、その他の土地は地元農家の増反分となった。
作物としては陸稲、裏作に小麦が作られ、その他サツマ芋、トマト、スイカなどが土地に適したという。
下新田の開墾風景