高倉第二

662 ~ 663
昭和九年、町屋耕地整理組合の延長として高萩村外二か村耕地整理組合が発足し、高萩・高麗川・鶴ケ島の三か村に跨がる約七百町歩の開墾に着手した。これは一般に入間大規模開墾と呼ばれ、後に耕地反別は八百町歩にも広がった。初代組合長には、当時の高麗川村々長の加藤与之吉が就任した。
 当初(昭和一一年)鶴ケ島村内では一一戸の入植があったが、後に増加して昭和三〇年には三七戸が在住した。この中には、一度高萩村内に入植し、昭和一二年に高萩飛行場(豊岡陸軍航空士官学校の分校)の建設が計画されたのに伴ない、そこを引き払って再びこの地に入植した人もいた。鶴ケ島村内の開墾面積も、この頃には六〇町歩程に増えていた。
 入植者の大部分は北海道と富山県の出身であった。そのため、周辺の農家との間に若干の生活様式の違いが見られた。地元の農婦が着物姿で農作業を行なっていたこの時分、富山県から入植した農婦は前掛にモンペという出で立ちであった。また、獣皮の上着にボッコ(寒冷地用の靴)履、防寒帽を被って伐木作業をする北海道出身の入植者の姿は、地元の人々の目に随分と奇異に映ったらしい。
 開墾は、トンビ鍬により手起しで行なわれた。今の様にブルドーザーや耕運機を使用する訳ではないので、ひとくわ、ひとくわ、満身の力を込めて打ち下ろした。あばら屋に住んで粗食に耐えた生活だから、精魂尽き果てて、木の根っ子に腰を下ろして嘆息することも度々あったという。
 開墾が一応終って作付けしたが、地味が悪いから、植えるものは、サツマイモと陸稲であった。収穫してもみんな一家の食用に使い果たした。ただ、スイカは比較的出来がよかったため「高麗鶴西瓜」のレッテルを張って出荷した。
 戦後は研究して多種類の野菜を作ったが、地味の悪いのは相変わらずで、冬の空っ風で大切な表土が大量に持っていかれるという状態であった。配給される、一貫六百匁のリン酸カリ、チッソ混合肥料ではとても足りず、川越や都内の塵芥捨場からトラックで廃棄物を買い付け肥料の代用にしたという。
 昭和二二年農地改革が実施されるに及び、開墾地の所有は旧地主から入植者に移行した。残務処理も含めて事業が完結をみたのは、昭和三一年のことであった。