昭和一六年三月、農地開発法が制定、公布され、同五月より施行された。この法の趣旨は、①主要食糧等の自給強化②国土の合理的開発及び自作農創設事業の強化、にあるとされた。要するに戦時の食糧増産体制の確立である。この目的遂行のために、国の代行機関として農地開発営団を設立、高率の補助を施して開墾を促した。
この当時、鶴ケ島は県下で最も広い未墾平地を有していたといわれ、そのうちの大字脚折、三ツ木、高倉、藤金、上広谷の百六十余町歩にわたる地域が開墾の対象となった。昭和一八年四月以降共栄と呼ばれるようになった地である。
一部地元農家も増反のため参加したが、開墾は大半が北海道出身の入植者により行なわれた。営団によって買上げられた土地は、これら入植者に一戸当り二町~二町五反程の割当てで売渡された。直接入植者が地主と契約して購入、借用する場合もあった。
昭和一六年より第一期開墾が、一八年より第二期開墾が始まった。事業の趣旨により、耕地の六〇パーセントは陸稲が作付された。これにより、鶴ケ島は陸稲作付面積に於て全国屈指の村となった。サツマイモ等も作ったが、やせた酸性土壌の土地であったため、当初は殆んど収穫は見込めなかった。落葉や下草を刈って堆肥にし、それでも足りずに塵芥や下肥を購入して肥料とした。
こうして除々に収量も増加したが、やっと収穫した陸稲やサツマイモも、その多くは供出に回さねばならなかった。供出量の算定が、古畑、新畑を問わず面積だけをもって基準とされたからである。
戦後は、昭和二五年頃から金肥を使用するようになり、地力も増進した。豚や羊も飼育し始め、昭和三〇年代以降はキャベツ、スイカ、メロン、落花生などの栽培が始まった。これらの作物は土地に適していたらしく、収穫量も少なくなかった。