富士見

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終戦直後の昭和二〇年一二月に閣議決定された緊急開拓実施要綱に基づき、埼玉県でも昭和二三年より未墾地開拓事業実施要領が定められた。この実施は農地改革の一環として進められ、国有地二、四〇六町歩と民有地三、二一九町歩が対象となった。
 終戦後不用となった陸軍坂戸飛行場の跡地も、国有未墾地として開墾の対象となった。坂戸町、鶴ケ島村、勝呂村、名細村に跨るこの地は「坂戸地区開拓地」と名付けられた。総面積二五四町歩、内一七八町歩が開墾計画面積で、外地からの引揚者や戦災者、復員軍人、地元農家の次三男など、鶴ケ島村内への四〇戸を含む九七戸が入植した。
 入植者たちは各町村別に農事実行組合を作り、それらが集まって坂戸開拓団と称した。分配された土地は一町乃至一町二反、後に文部省所有地が解放されて各戸平均一町八反程度となった。
 入植には農業に従事することが条件とされ、その後県が行なった精耕検査の結果、合格した者のみが開拓農家として残った。土地代金は県へ年賦返還されることになっていた。
 開墾が始まったのは昭和二一年の春からであった。元来が飛行場であったため、土は異常に堅く、歩けば靴が跳ね上がる程であった。削平されて真土(赤土)の露出している場所や、砂利が敷かれ押し固められている様な所もあった。凹凸のひどい部分は馬車をひいて均した。農耕用機械の導入以前は、旧軍のタンク(戦車)でプラウ(犂)を引いて耕すこともあったという。
 住まいは掘建小屋や防空壕、場合によったら野芝を積み上げてその上に屋根を乗せただけという状態であった。昭和二五年になって住宅建築の補助金が県から融資されることとなり、ようやく簡素ながら住宅が建つようになったが、電気は依然として引けずランプ生活が長く続いた。富士見地区が電化されたのは、やっと昭和二八年に入ってからのことであった。生活上特に困ったのは風呂の問題で、ドラムカンを石組に乗せて五右衛門風呂にして使用したという。
 土地は地味に応じて一等から六等まで等級付けられた。六等地は真土ばかりの場所で、雑地と呼ばれ加税対象から外される程であった。この様な畑では、陸稲を蒔いても二〇センチ程に生長するだけで枯れてしまう。サツマイモを植えても、花は咲くが三〇センチとは蔓が伸びず、そのまま秋を迎え人指し指位のイモしか採れなかった。それでも、川越市から塵芥搬入するなど土壌作りに努め、畜産振興、落花生やスイカ、メロンなどの開拓地向きの作物栽培の振興等による本格的な営農を始め、ようやく生活の安定を見るようになった。
 それに先立ち、昭和二三年の農協法制定に伴ない、従来の農事実行組合を解散し、坂戸開拓団を富士見開拓農業協同組合へと発展解消させていった。組合員は八二名で、この地区が富士見と名付けられたのはこの頃である(但し正式に大字富士見が設置されたのは二六年六月)。富士見農協は、農村工業農業組合を設立し、国からの融資で澱粉工場などを作ったり、畑地灌漑による基盤整備を図るなどした。これら試みは必ずしも成功したものばかりとはいえないが、その農業経営の姿勢は意欲的であった。