戦後、開拓適地調査の結果に基づき、県農地委員会で、鶴ケ島地区を含む八地区の民有地買収が決定された。鶴ケ島地区とは、大字太田ケ谷、藤金、上広谷、及び名細村に跨がる一一九町歩の山林を指し、昭和二二年七月に買収が完了した。これは県下最初の民有林の解放で、三四戸が入植したが、その内訳は、引揚者一七戸、復員軍人六戸、地元関係者四戸、その他七戸であった。
同年末、入植者により鶴ケ島開拓団が組織され、団長に横山時二が選出された。翌二三年には、農協法制定に伴い鶴ケ島開拓農業協同組合が設立され、その後の共同体制の基礎が築かれた。
この地区は赤松林の伐採跡地で、配給の開墾鍬と斧によって開墾作業が行なわれた。未経験の営農生活の上、資材は不足し、掘建小屋にランプ生活といった開墾地の特殊条件も重なって苦しい日々であった。一部引揚者に至っては掘建小屋さえ建てられず、県から借りた天幕で共同生活をして越冬した。このような中で離農、退団を余儀なくされた者もいて、昭和五一年時の開拓団員は二五戸にまで減じた。この地区に電気が引かれるようになったのは昭和二九年に入ってからのことで、大字鶴ケ丘が設置されたのも同じ年であった。
入植当初は他の開墾地同様地味が悪く、肥料の入手もできなかったため、川越市の塵芥を共同購入して各戸に配給し作付けを行なった。しかし結果は肥料不足のためジャガイモ、サツマイモは収穫皆無に近く、陸稲は旱魃のため三分程度の収穫であったという。
思案の末、作物の転換を考え、スイカ栽培を試みたところこれが成功した。県下で最初に接木の技術を習得するなどの努力も重ね、鶴ケ島西瓜の名声を得るまでになった。更には、連作の弊を避けるためスイートメロンへと転作、他地区の農家も含め共同出荷を行なった。これは、県の特産品として天皇陛下に献上されるに至った。