2 戦後の農業

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 第四章「戦時体制と太平洋戦争」でも触れた通り、鶴ケ島村の農業は、他市町村同様、昭和初年の農村不況から太平洋戦争にかけて手ひどい打撃を被った。戦後漸く復興のきざしが見え始めたとはいうものの、米、麦、かんしょ、ばれいしょ等の供出が指示される中、肥料等諸資材の不足のため容易に生産力は増大しなかった。国内的には、こうして引き起こされた戦後の食糧不足は昭和二七年頃まで続き、その間MSA協定によるアメリカからの食糧援助等が行なわれるなどした訳であるが、鶴ケ島にあっては、村民の大部分は生産農家であったため、食糧確保に関しては恵まれた立場にあった。
 昭和二五年の作物別収穫面積を見ると、かんしょが二四四ヘクタールと最も広く、小麦、陸稲がそれに続いている(表-52)。畑作地帯であった鶴ケ島にとって、逼迫する食糧事情の中でかんしょは最も時宜に適った作物であった。
表5-52 作物別収穫面積の変化
単位:ha
昭和25年354045505560
水稲10310710395372215
陸稲191198132129763626
小麦199142124120251716
大麦・裸麦124118811
ビール麦2018418749
ばれいしょ5725191312129
かんしょ24415463151298
豆類421633128517
13364052666450
その他の工芸農作物(落花生等)8961939141222
結球はくさい31115211286
だいこん16313866232013
すいか31339954
その他の野菜511318478646456
飼料用作物5421181619
その他の作物20106212340
「農業センサス」から作成

 収穫されたこれら作物は、盛んにヤミにより売買された。
 二五年に肥料の、二七年に農産物の価格統制が撤廃されたころから、埼玉県でも耕地面積の拡大が始まり、昭和三〇年代の半ばまで農業の総体的な発展は続いた。その後の耕地面積の減少は、いうまでもなく高度経済成長政策の進行に伴うものである。
 鶴ケ島でも、昭和三〇年代の前半より工場誘致条例に基づく工場の進出が始まり、耕地面積減少の原因となった。また、農村労働力の流出による農家の兼業化の波は、鶴ケ島にも訪れるようになった。とりわけ四〇年代に入ると、首都圏の経済活動の活発化の中で人口増加が進み、住宅都市としての性格が強まり耕地の激減を招いた。
 戦後の作物別収穫面積の変化(表-52)を見ると、いずれの作物も昭和三五~四〇年頃を境に以降減少を続けており、以上の動向を具体的に裏付けている。
 水稲に関しては、四四年の国の稲作転換対策の影響も考慮に入れる必要がある。麦作は、従来から埼玉県は全国有数の麦作地帯といわれていたが、生産コストの高さから作付転換が進み、収穫量、収穫面積ともに減少著しい。
 畜産に関しては、表-53の通り、飼養農家数は減少したが逆に経営規模は拡大している。これは、各農家に於ける副業的或いは自家用の飼養が、専業経営へと変化していったことを示す。なお、昭和三〇年代に馬が飼養されなくなったのは、農業機械、特に動力耕耘機の導入のためである。
表5-53 家畜等飼養農家数・頭羽数
昭和25年354045505560
乳用牛農家数3614914937191011
頭数40360360466277200213
肉用牛農家数207682113452
頭数21170262415912785
農家数259391280142613015
頭数32362889782337817586
めん羊農家数7338
頭数7438
やぎ農家数1021195914
頭数1071226117
採卵鶏農家数527391241111601816
頭数2,4674,98219,16575,506147,18397,023133,896
農家数311
頭数311
「農業センサス」から作成

 昭和四〇年代半ばには、「都市計画法」及び「農業振興地域の整備に関する法律」の施行により、土地利用の用途区分がなされ、また農道整備や土地改良事業といった農業近代化の基礎的条件が整備れるようになった。こうして鶴ケ島の農業は、立地と時代の条件に対応しつつ、着実に都市近郊農業としての性格を強めている。